「人柄の小渕」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:07 UTC 版)
絶対に他人を叱らないことで有名だった竹下登の薫陶を受け、小渕もまた敵を作らない、穏やかな性格の持ち主として知られていた。しかしその一方で、村山富市内閣総理大臣が辞意を漏らした際(後に否定し続投)、村山内閣の副総理兼外務大臣だった河野洋平が後継首相に意欲を示し、河野の意を受けた森喜朗自由民主党幹事長が党内の情勢を探るため有力者の意見を聞いて回ったところ、小渕は「ロッキード事件で自民党が苦境に立たされた時、あっさり党を見捨てて新自由クラブ結党に走った河野の首相就任は絶対に受け入れられない」と、いつになく強硬に反対し、党内最大派閥の支持が得られなければ政権の維持は難しいとして、森らは一度辞意を漏らした村山富市を慰留し、結局村山がしばらく続投することになった。 後年、自由民主党総裁選挙に再選を目指して出馬した際、対抗馬として立候補した、加藤紘一、山崎拓に対しては、両名が率いる派閥を党役員人事・内閣改造で徹底的に冷遇し、宏池会で加藤のライバル的存在であった河野洋平を再び外務大臣に任命したほか、同じく宏池会に所属しながら、加藤の出馬に反対した池田行彦を、党政務調査会長から総務会長へと横滑りさせた。この人事に対して、電話で抗議した加藤に対し、小渕は「あんたは俺を追い落とそうとしたじゃないか。選挙とはそういうものだ」と言い放ち、加藤は絶句したという。このように、時として敵を作らない「人柄の小渕」らしからぬ行動に出ることもあった。
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