《歓帰荘》の設計
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1936年、白井は義兄近藤の従弟である画家の柏木俊一に、伊豆長岡の旅館白石館の女主人師岡和賀を紹介される。旅館白石館は多くの芸術家の滞在した旅館で、近藤とも縁があった。師岡は旅館の敷地内に新たに建てる、彼女が住むための離れの設計を白井に依頼する。白井は依頼を受けて、《歓帰荘》(移築されて現存)を設計し、翌年に完成。《歓帰荘》でも、《河村邸》と同様にハーフティンバー様式を採用する。《歓帰荘》の設計について白井は1937年6月の雑誌『建築世界』の誌上で、「禅刹の静謐、日本の民家の素樸重厚さを心として造つたが、フランス、ドォルドオニュ県にあるモンテエニュの城邸を参考にした」と語っている。また、伊豆に滞在中に江川太郎左衛門邸を見て感銘を受ける。さらに、当時、三島の龍沢寺の住職で寺の復興を進めていた山本玄峰に出会い、親灸する。同年、近藤が連載の挿絵を手がけていた山本有三『真実一路』(新潮社)の書籍化に際して、白井がその装丁を手がける。これが白井にとって初めての装丁の仕事となる。この時のペンネームは「南沢用介」だった。 1937年、河村照子と結婚する。南沢から四谷区南寺町に引っ越した近藤邸に同居する。1938年、長男の彪介が誕生する。この年一月に四谷の近藤邸が火事に遭い、小石川区同心町の仮の住まいに近藤一家と転居。 1940年、近藤が豊島区北大塚に土地を購入し、白井はそこに新築する近藤の自邸兼アトリエの設計を手がけた。近藤はこの住まいを2代目の「土筆居」と名付ける(現存せず)。初代「土筆居」《河村邸》とは異なり、数寄屋風の日本家屋となった。白井も1943年には、この敷地内に自邸を建てて移り住んだ。その日本家屋風の佇まいや周りに植えられた竹林から、近所では「雀のお宿」と呼ばれていた。なお、白井の建築作品の中ではこの建築を《近藤浩一路邸》と呼ぶ。《近藤浩一路邸》の完成後、近藤は白井に山梨県に建てる別荘の設計を白井に依頼する。この別荘は《山中山荘》(現存せず)として1939年に完成する。
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