じ‐めつ【自滅】
自滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:15 UTC 版)
龐勛の反乱の目的は政府転覆ではなく、ただ自分たちが贅沢をしたいという理念もへったくりもないものだった。このためは兵隊は強制連行、物資も豪族や富豪から根こそぎ略奪するようになり、隠匿した者は一族皆殺しにされるという有様。崔彦曽の苛政から逃れるために反乱を起こしたのに崔彦曽よりもひどすぎる状況に、参加していた豪族の李兗といった人々が失望し離反した。康承訓も投降を受け入れる作戦をとり、戦わずして龐勛軍は消滅していた。四面楚歌な状況に龐勛はどうすることもできず、僧侶にお布施をしたり、神頼みすることぐらいしかできなくなっていた。 咸通10年(869年)9月、龐勛は2万の軍勢を率いて石山から西に出たものの、康承訓の歩騎8万に追われる。いったんは宋州の南城を占領するがそこも追われ、汴河を渡ったところで朱邪赤心(中国語版、英語版)(李国昌。李克用の父)率いる軍勢に攻められたので、済水を渡って逃げようとしたが李兗が橋を切り落として待ち構えていたため、逃げ場を失った龐勛軍は覆滅され、龐勛も乱戦の中で死亡した。こうして龐勛の乱は終わりを告げたのであった。
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