青山・土器山の戦い 青山・土器山の戦いの概要

青山・土器山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/03 04:01 UTC 版)

青山・土器山の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日:(宣明暦永禄12年
ユリウス暦1569年5月 - 6月
場所播磨国
結果:黒田軍の勝利
交戦勢力
Goshichi no kiri.svg 龍野赤松軍 Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg 黒田軍
指揮官
Goshichi no kiri.svg 赤松政秀 Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg 黒田職隆
Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg 黒田孝高
三木通秋
戦力
約3,000 Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg 黒田軍:約300
三木通秋:280
損害
数百人 井手友氏母里一族など死傷者287人

開戦前の状況

赤松宗家と龍野赤松氏の対立

永禄元年(1558年)、浦上政宗などに擁立された赤松義祐は父赤松晴政から赤松氏の家督と置塩城を政争によって奪い、父晴政を追放したがこの晴政を匿ったのが晴政の娘婿である龍野城赤松政秀であった。

これ以後、義祐の治める赤松宗家と晴政を擁する龍野赤松氏は対立するが、永禄8年(1565年)に晴政が死亡すると一旦は赤松宗家と龍野赤松氏は和睦する。しかしながら和睦成立後も赤松政秀は独断での利神城攻撃など宗家を意に介さない行動を取り続けた。

両赤松家対立の再燃

永禄10年(1567年)8月、赤松政秀に足利義昭からの使者が訪れる。当時、松永久秀などに京を追われていた義昭は全国の諸侯に後援を求める檄を飛ばしており、政秀の元にも要請が来たのである。以後、政秀は義昭と誼を通じる。

翌永禄11年(1568年)に足利義昭は織田信長の支援を背景に上洛を果たし、征夷大将軍となり室町幕府第15代将軍に就任する。政秀は将軍義昭と更に結び付きを深めるべく、自身の娘を義昭付きの侍女として側仕えさせようと京へと向かわせた。

政秀が将軍と懇意になることで播磨の守護職を簒奪しようとする事を危惧した義祐は家臣の御着城小寺政職に命じて上洛途上の政秀の娘の身柄を拘束させると同時に備前浦上宗景に龍野攻めを要請し、浦上との挟撃で政秀を討ち果たさんとした。浦上宗景はこれを受けて義祐の要請という大義名分を得ての播磨侵攻を行い、9月には備前・美作から集めた兵を率いて政秀の領地に踏み込んだ。

織田家介入

永禄12年(1569年)2月、政秀の娘は無事京に辿り着いたが、浦上の攻勢は止まず、たまりかねた赤松政秀は足利義昭に救援を求め、これを受けた義昭は織田信長に播磨出兵を促した。信長は池田勝正摂津国衆を中心とした軍団を派遣し、これに東播磨の別所安治別所重棟・明石祐行が加わった軍団が播磨の義祐領に攻め込んだ。時を同じくして備前では宇喜多直家が浦上宗景に対して謀反を起こし、これにより浦上軍は備前へと急ぎ兵を返した。

一転して優勢に立った政秀は義祐に従った小寺政職の御着城の支城の一つで黒田職隆孝高親子の守る姫路城の攻略を目指して兵を動かす。こうして一連の動乱は織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いの様相を呈する形となった。

開戦

青山の戦い

永禄12年(1569年)5月、赤松政秀は3,000の兵を率いて出陣する。黒田軍は主君小寺政職が殆どの兵を置塩城に入れて義祐と共に篭ってしまったため、動員できたのは300人程度であった。黒田軍は当時は現在のような大城郭ではなかった姫路城での籠城を諦めて野戦を仕掛けた。

黒田孝高は軍を率いて姫路城の西の青山(現:兵庫県姫路市青山)の地に兵を伏すと、姫路を攻めようとした赤松軍を奇襲して撤退させることに成功した。 なお金子堅太郎著『黒田如水伝』(大正5年)では赤松軍が5月と6月に2度攻めてきたとする。『小寺政職家中記』には8月9日とある。

土器山の戦い

同年6月に3,000の兵を率いた赤松政秀は小丸山に布陣し、対する黒田軍は夢前川東岸にある土器山(現・瓦山。一説に現・船越山)に陣を張った。戦闘があったのは裾野の土器坂である。

戦闘は赤松軍の土器山の黒田軍への夜襲に始まった。兵150の孝高は叔父(職隆の実弟)の井手友氏(いで ともうじ)や母里小兵衛などの有力な武将を失い窮地に陥ったが、夜が明けると英賀城主の三木通秋が率いる280の兵が南から赤松軍を攻撃、さらに姫路から職隆が出撃して赤松軍の後背を突いたことで救われた。赤松軍は優勢を保ったまま昼には小丸山の陣に兵を収めた。 黒田軍の被害は甚大であったが、孝高は対陣が長引けば勝ち目は無いと判断し攻勢に出る。先の戦いで体の7箇所に怪我を負った幼い頃からの官兵衛の家臣である母里武兵衛(小兵衛の子)は「これ程の傷を負った者に出撃せよとは死ねということか」と反駁したが、孝高は「恐らくはそうなるだろう」とだけ言葉を返したという。

黒田軍は孝高が先鋒、職隆が殿という布陣で同夜に小丸山の赤松軍を強襲した。昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走した。 敗走した赤松軍のうち衛藤忠家・島津蔵人と4人の弟が笹峠(現・山田峠)で討死した(衛藤家の系図には現地に塚(墓)があると書かれているが現在は確認できない)。

黒田勢は、敗走する赤松勢を追撃し、夢前川から龍野城の中間あたりの太子町あたりまで追いかけて、数百人討ち取ったが、黒田勢の損害も死傷者287人という、ひどい状況であったため、それ以上の追撃も断念。母里武兵衛も重傷の身を押して先頭を切って赤松軍に斬りかったとされ、奮戦の末に7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げたと言う(『小寺政職家中記』)。この戦で母里一族は24人もの戦死者を出し、後を継ぐものが居なくなってしまったが功績のある母里家が絶えるのを惜しんだ孝高は曽我一信と母里氏の女との間の子に母里姓を与え名籍を継がせた。これが母里友信(太兵衛)である。




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