賤ヶ岳の戦い 清洲会議

賤ヶ岳の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 02:14 UTC 版)

清洲会議

天正10年6月2日1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主・織田信忠が重臣・明智光秀の謀反によって横死する本能寺の変が起こり、その後まもない山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つにいたった。6月27日7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と嫡男・信忠の子である三法師(後の織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じた。結果的には同席した丹羽長秀池田恒興らが三法師擁立に賛成したため勝家も譲らざるをえず、この後継者問題は形の上ではひとまず決着をみた。ただし、近年、勝家も三法師擁立自体には賛成していたが、その成人までの名代(当主代理)をどうするかで対立したとする説も提唱されている[注釈 1]

合戦にいたるまで

両陣営の動き

この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田側の後方にある上杉景勝や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が、羽柴側になびくなど秀吉に有利な状況が出来つつあった。一方で勝家の側も土佐長宗我部元親紀伊雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。

勝家による和平交渉

10月16日、勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している(『南行雑録』)。11月、勝家は前田利家金森長近不破勝光を使者として秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由とした見せかけの交渉であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めている。

秀吉による長浜城、岐阜城攻め

12月2日12月26日)、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏した。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。

滝川一益の挙兵

翌天正11年(1583年)正月、伊勢滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵し、関盛信一政父子が不在の隙に亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で秀吉を迎え撃った。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を2月20日4月11日)に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は3月3日4月24日)、峯城は4月12日6月4日)まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に秀吉に仕えた。

勝家の挙兵

一方で越前・北ノ庄城にあった勝家は雪のため動くことができずにいたが、これらの情勢に耐え切れずついに2月末、近江に向けて出陣した。

合戦

賤ヶ岳山頂と余呉湖
賤ヶ岳古戦場登山道入口
月岡芳年浮世絵シリーズ月百姿 No. 67、志津か嶽月 秀吉

対峙

3月12日5月3日)、柴田勝家佐久間盛政前田利家らと共におよそ3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日5月18日)秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。秀吉から秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は前野長康黒田官兵衛、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない[1]

交戦

4月16日6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌4月17日6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けた。

4月20日6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。

同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。 佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。この時に活躍したのが、羽柴秀吉側の、賤ヶ岳七本槍といわれる加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元である。

勝家の敗走

ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される[2]。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は崩れ、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。

北ノ庄、岐阜、長島城の落城と信孝自害

勝家は北ノ庄城に逃れるも、4月23日6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した(北ノ庄城の戦い)。 佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移され、4月29日6月19日)信雄の使者より切腹を命じられて自害した。残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し[3]、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。


注釈

  1. ^ 柴裕之『清須会議』(戎光祥出版、2018年)の説。柴は勝家が信孝を推した逸話は『川角太閤記』の創作で、そもそも京都・安土・岐阜ではなく清州で会議が開かれたのは、後継者である三法師の御前で開くためであったとしている。

出典

  1. ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
  2. ^ 高柳 2001.
  3. ^ 池上ほか 1995, p. 477.
  4. ^ 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(初出:『堺市博物館研究報告』32号(2013年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4
  5. ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.473-476)。
  6. ^ 『尾張群書系図部集 下』(続群書類従完成会、1997)p.853
  7. ^ a b c 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.474)。
  8. ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.474-476)。
  9. ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.476)。
  10. ^ a b 神田 2002, p. 270.






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