松岡直也 経歴

松岡直也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 04:47 UTC 版)

経歴

生家は本牧・小港にあった。7歳の頃から独学でピアノを弾き始める。15歳の時、「パン猪狩とマーキス・トリオ」のピアニストとしてプロデビュー。翌年には自身のバンド「松岡直也カルテット」を率いてライブを中心に活動を開始する。また、「浜口庫之助とアフロ・クバーノ・ジュニア」にピアニスト、編曲家として参加し、ヒット曲「黄色いサクランボ」を編曲する。

この頃からラテン音楽の虜になり、「キューバン・スペシオーサ」、「松岡直也ピアノ・トリオ」、「ラテン・スペシオーサ」、「松岡直也ラテン・ピアノ・トリオ」、「松岡直也ハバナ・ビーツ」(後に「松岡直也ハバナ・ビーツ・オーケストラ」に改名)などのラテンバンドで活躍する。

1961年には「アーティストリー・サウンド」を結成し、ショーの音楽プロデュースと編曲を手掛けるようになる。その後、いずみたくが主宰する「オール・スタッフ」に所属。映画・テレビ・CM音楽等の作・編曲を手掛ける傍ら、スタジオ・ミュージシャンとして活動を始める。

1972年にはテレビドラマの主題歌として使われた「太陽がくれた季節」(歌・青い三角定規)を編曲し、青い三角定規は同曲で第14回日本レコード大賞・新人賞を受賞。いしだあゆみ「小さな愛の歴史」作曲(古賀賞/日本作曲家大賞受賞)。更に「松岡直也オールスターズ」を結成しライブ活動を再開する。

1977年、初のリーダーアルバム『JOYFUL FEET』を発表。1979年にはホーン・セクションを加えた大規模編成によるラテン・ジャズ、ラテン・フュージョン・バンド「松岡直也&ウィシング」を結成[2]。また「ラテン・ジャズ・アンサンブル」の日本公演にピアニストとして参加した。

1981年には神戸市で開催された博覧会ポートピア'81」のダイエー館(オムニマックス・シアター)の音楽を担当。そこでの使用楽曲は同年のアルバム『THE SHOW』に収録されている。また同じ1981年には、ロックプロジェクト・MASH(マッシュ)を立ち上げるものの、衣装の派手さや音量の大きさが仇となってしまい短命に終わる。

1982年、音楽活動30周年を記念したベスト・アルバム『九月の風』を発表。オリコンチャート第2位、半年間30位以内にチャートインするなど、インストゥルメンタル・ミュージック界では珍しいヒット作となった。

しかし人気が高まるにつれ、大規模編成であるウィシングのライブ活動がままならなくなりやむなく解散。小規模編成による「松岡直也グループ」を結成。この中からは和田アキラ高橋ゲタ夫、菅野真吾(現・カルロス菅野)、是方博邦大橋勇(現・勇武)といった人気音楽家を生み出している。

日本国外では1980年に「松岡直也&ウィシング」、1983年には「松岡直也グループ」としてスイスモントルー・ジャズ・フェスティバル」に出演。どちらも大成功を収め、1980年の演奏はアルバム『LIVE at Montreux Festival』、1983年の演奏はアルバム『WELCOME』に収録されている。また現地のテレビ放送のため映像も収録されており没後に2作品ともDVD・Blu-rayで発売されている。

1985年には同年にANN系列で放送を開始した『ニュースステーション』をはじめとするANNニュースのテーマソングを作曲。また中森明菜に提供した「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」の作・編曲を手掛け、同曲は第27回日本レコード大賞を受賞し、また松岡は日本作曲大賞・優秀作曲家賞を受賞した。

1986年にはわたせせいぞう作で日本テレビ系列で放送された『ハートカクテル』の音楽を担当。楽曲はサウンドトラックとして「ハートカクテルVol.1」が1986年11月、「Vol.2」が1987年2月に発売。一方でプロレスラー藤波辰巳(現・辰爾)の入場テーマ曲「Rock Me Dragon」を作曲する、というユニークな面も見せた[3]

1988年にはNHK教育テレビで放送された『ベストサウンドIV』の講師を担当。1993年には再びホーン・セクションを交えた大規模編成によるバンド「松岡直也バンダ・グランデ」を結成、更に1997年にはTBS系列のドラマ『智子と知子』の劇伴を担当。

2001年に病気を患うがその後も音楽活動を続け、2005年にアルバム『Sincerely』を発表。2009年には新ユニット「Hot & Unique」の結成、音楽活動60周年を迎えた2012年には「松岡直也&ウィシング」を再結成[4]させてライヴ活動を行うなど、闘病しながらも精力的に活動を続けていた。

しかし2014年3月末に体調が急変して入院。4月29日午前10時22分、前立腺癌のため川崎市の病院で死去[5]。76歳没[6]


  1. ^ 松岡直也オフィシャルサイト”. 2014年4月30日閲覧。
  2. ^ ウィシングには村上ポンタ秀一や高橋ゲタ夫、向井滋春らが参加した
  3. ^ 1987年1月に12インチ・シングルとして発売された。
  4. ^ この時の再結成には全盛期のレギュラーメンバーである村上ポンタ秀一や高橋ゲタ夫、和田アキラ、土岐英史に加えて「松岡直也グループ」のメンバーだったカルロス菅野大儀見元が参加。ホーンセクションには菅野がリーダーを務める熱帯JAZZ楽団のメンバーが参加した。
  5. ^ “「ミ・アモーレ」作曲の松岡直也氏が死去”. 日刊スポーツ. (2014年4月30日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20140430-1293378.html 2020年2月16日閲覧。 
  6. ^ [訃報]日本を代表するラテン・フュージョン音楽の第一人者の松岡直也さん逝去”. Yahoo!ニュース (2014年4月30日). 2020年7月25日閲覧。
  7. ^ 犬塚弘佐藤利明・共著『最後のクレイジー 犬塚弘』(2013年講談社ISBN 9784062184472)P.71-72より






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松岡直也」の関連用語

松岡直也のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松岡直也のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松岡直也 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS