孔子
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生涯
出自
紀元前552年(一説には前551年)に、魯国昌平郷辺境の鄹邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で鄹邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)または孔紇(こうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[8]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[9]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[10]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[11]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[12]。
『史記』によれば、孔子の祖先は宋の人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の厲公の兄である弗父何の10代後の子孫であり、孔子の曽祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。
孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも勉強に励んで礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖の周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。
弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[13]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[14]。
孔子の生活は、明るく楽しいものではなかった。姉もたくさんいて、足の不自由な兄もいる。父は、孔子が3歳の時に亡くなった。母は17歳の時に亡くなってから、それまでの生活は、母の仕事によって成り立っていたのだろう [15]。
父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、特に母は心配だった。そこで、祈禱師でもある母は「尼丘に禱り、孔子を得たり」近くの尼丘山にいのって、孔子をさずかることができた。魯国の襄公22年9月28日とされている。ただし、生年には諸説があり、『春秋公羊伝』は「襄公21年10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月5日の後に生まる」とする。また『史記集解索隠正義礼記』は、周の正月は11月なので、『史記』の22年は実際は21年になる、という。その他、限りなく諸説が展開し、南宋の王応麟は、もはや考えるすべもないと嘆息している。新しいところでは、張培瑜が「孔子生卒的中暦和公暦日期」において、従来の諸説を概観した結果、魯の襄公22年10月27日庚子、現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当だろう、と述べている。誕生にまつわる話で孔子が生まれる夜、天から二頭の蒼龍が母の部屋の上に降りてきて、母は夢の中に孔子を産んだ。また、2人の神女が空中から香露を擎げて降りてきて、母に沐浴させた。天帝も、鈞天の楽を奏しながら部屋の上に降りてきた。空中に「天が聖なる子を産むので、地で音楽の枠を奏するのである」という声が聞こえた。五人の老人が庭に立った。これは、五つの星の精である。五つの星は、五行説にいう木、火、土、金、水の五行の精。それぞれ、木精、火精、土精、金精、水精をさす。さて孔子が生まれる前に、麒麟が村に現れて玉書を吐き出した。そこには「水精の子が、哀えている周王朝を継いで、素王ー王位に就かず、王者の徳を備えている人になるだろう」とあった。水精は五行の循環によって歴史が展開するという考えに基づく。周王朝は火の徳に当たるので、それを継ぐのは水の徳ということになる。孔子の母は、繡紱を麒麟の角にかけてやった。麒麟は、孔子の家に二泊してから去っていった。原形は、東晋の王嘉著の『王子年拾遺記』巻3に見られる。王嘉は、隠遁生活を続けて穴居生活をし、俗世と交わらず、五穀を食べず門弟数百人を擁したという。よか未来を予言し、のち長安に出て終南山に住んだ。別に、これは南朝梁の蕭紀の著で、名を王嘉に託したものという[16]。
青年期
紀元前542年6月、魯の襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である稠が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。
紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。
紀元前537年に魯の軍事を独占していた季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。
紀元前534年、孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん)氏と結婚する[17]。翌年、子の孔鯉(字は伯魚)が誕生。
紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった[18]。紀元前518年には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている[19]。またこの年、孔子は周の都である洛陽へと遊学している。
紀元前517年、孔子が36歳のとき、第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季孫氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[20]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如(季平子)を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こった[21]。この間、魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。
孔子は魯へと戻った[22]。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。
紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[23]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。
紀元前502年に陽虎は叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして籠城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。
(孔子についても、ほとんど分かっていない。母の仕事の影響をうけて、文字を知り、礼法を知り、そして知識によって生きていこうと決心して、まず村の役人になることができた。しかしその礼法は、あくまで祈禱師としてのそれであり、社会全般、まして国家としてのそれではない。おそらく、天下に通ずる礼、伝統的に守り続けられてきた礼法を学ぶ為に、必死になって各地を訪れ、知識人に会っては、自分なりに整理し、体系付けていった。この努力が、孔子の基礎を作った。[16])
大司寇時代
紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[24]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な宰相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[25]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[26]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[25]。
紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する[注釈 1]。
紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季孫氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[27]。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した[28]。
亡命から晩年まで
翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間、諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのは衛であり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったん晋に向かったが衛に戻り、曹へ向かおうとして宋で妨害されたために鄭へと逃れ、ついで陳に赴き、いったん蔡に向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子は楚に向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。
(孔子の外遊中の紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。)
紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の孔鯉が50歳で死んでいる。
紀元前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。『論語』の憲問編にて「大夫の末席に連なる以上、(聞き入れて貰えないのは分かっていても)言わざるを得なかった」と嘆いたと記すのはこの時のことである。
孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで紀元前480年には衛に仕えていた子路も殺された。
紀元前479年に孔子は74歳で没し、曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
孔子死後の魯
孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏の武力討伐を試みるも三桓氏に屈し、衛や鄒を転々とした後に越へ国外追放され、前467年にその地で没した。
孔鯉の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代(27代~29代)にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。
のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。
注釈
出典
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- ^ “四聖(シショウ)とは”. コトバンク. 2020年6月14日閲覧。
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- ^ 津曲 2013, p. 1156.
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