歌川国芳 画『日本国開闢由来記』巻二「天津日子番能邇邇芸命 ( あまつひこほのににぎのみこと ) 降臨於筑紫日向之高千穂槵触峰図 ( つくしひむかのたかちほのくしふるがたけにあまくだりたまふづ ) 」
天孫族 の邇邇芸命 ( ににぎのみこと ) が、葦原の中津国 を治めるために、高天原 から筑紫 の日向 の襲 [1] [2] の高千穂峰 へ天降 ( あまくだ ) った[注 1] 。
古事記
天孫邇邇芸命の誕生
天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である天忍穂耳命 に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」[5] と言った。
天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」[6] と答えた。邇邇芸命は、天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命 との間の子である。
それで二神は、邇邇芸命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。
猿田毘古
邇邇芸命が天降りをしようとすると、天の八衢 ( やちまた ) に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命 に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神 の猿田毘古神 で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。
天孫降臨
邇邇芸命の天降りに、天児屋命、布刀玉命 、天宇受売命、伊斯許理度売命 、玉祖命 の五伴緒 ( いつとものお ) が従うことになった。
さらに、天照大御神は三種の神器と思金神 、手力男神 、天石門別神 を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。
八咫鏡と思金神は伊勢神宮 に祀ってある。登由宇気神 は伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県 ( さなながた ) に鎮座する。
天児屋命は中臣連 ( なかとみのむらじ ) らの、布刀玉命は忌部首 ( いむべのおびと ) らの、天宇受売命は猿女君 ( さるめのきみ ) らの、伊斯許理度売命は作鏡連 ( かがみつくりのむらじ ) らの、玉祖命は玉祖連 ( たまのおやのむらじ ) らの、それぞれ祖神である。
邇邇芸命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂 の久士布流多気 ( くじふるたけ ) に天降った。
天忍日命 と天津久米命 が武装して先導した。天忍日命は大伴連 ( おほとものむらじ ) らの、天津久米命は久米直 ( くめのあたひ ) らの、それぞれ祖神である。邇邇芸命は「この地は韓国 ( からくに ) に向かい、笠沙 ( かささ ) の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
猿田毘古と天宇受売
邇邇芸命は天宇受売命に、猿田毘古神を送り届けて、その神の名を負って仕えるよう言った。それで、猿田毘古神の名を負って猿女君と言うのである。
猿田毘古神は、阿耶訶 ( あざか ) で漁をしている時に比良夫貝に手を挟まれて溺れてしまった。底に沈んでいる時の名を底度久御魂といい、泡粒が立ち上る時の名を都夫多都御魂といい、その泡が裂ける時の名を阿和佐久御魂という。
天宇受売命が猿田毘古神を送って帰ってきて、あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇芸命)に仕えるかと聞いた。多くの魚が仕えると答えた中でナマコ だけが答えなかった。そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。それで今でもナマコの口は裂けているのである。
木花之佐久夜毘売と石長比売
邇邇芸命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神 の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売 といった。邇邇芸命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売 とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇芸命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。
大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約 ( うけひ ) をしたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」[7] と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。
日本書紀
(注)日本書紀 の本文と一書 ( あるふみ ) について:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。
本文
『日本書紀』の第九段本文 では、天照大神の子 ( みこ ) 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 ( まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ ) が、高皇産霊尊 ( たかみむすひ ) の女 ( むすめ ) 幡千千姫 ( たくはたちぢひめ ) を娶りて天津彦彦火瓊瓊杵尊 ( あまつひこひこほのににぎ ) を生む。
高皇産霊尊は、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を葦原中国の主 ( きみ ) とするために、葦原中国の「邪鬼 ( あしきもの ) 」をはらう手立てを八十諸神と相談して講じていた[8] 。(国譲り )
天稚彦 の派遣から始まる葦原中国平定 (国譲り)後、時に高皇産霊尊は真床追衾 ( まとこおふすま ) を以ちて、皇孫 ( すめみま ) 天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた。
皇孫は天磐座 ( あまのいはくら ) を出発し、また天八重雲 ( あめのやえくも ) を押し分け、稜威 ( いつ ) の道 ( ち ) 別き道別きて、日向 ( ひむか ) の襲 ( そ ) の高千穂峯 ( たかちほのみね ) に天降った[注 2] 。
続いて道中の解説後、その地に一人の者がいて、自ら事勝国勝長狭 ( ことかつくにかつながさ ) と名乗った。
皇孫は「国在りや不 ( いな ) や。」と尋ねると、彼は「此 ( ここ ) に国は有ります。請 ( ねが ) わくは任意 ( みこころのまにま ) に過ごしてください。」と答えた。故に皇孫は行って留まり住んだ。
その時、その国に美人 ( たおやめ ) がいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「妾 ( やつこ ) は天神 ( あまつかみ ) が大山祇神 を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫 ( かしつひめ ) という、とある。その後鹿葦津姫の出産の逸話 がある。
最後にしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩御した(「崩 ( かむざ ) りき」)。そこで筑紫 ( つくし ) の日向 ( ひむか ) の可愛之山 ( えのやま ) の陵 ( みささぎ ) に埋葬された。
第九段一書(一)
第九段一書(一) では、本文と類似する天稚彦の派遣から葦原中国平定があり、続いて時に天照大神、「若し然らば、早速、我が子を降さん」と勅 ( みことのり ) し。まさに降ろうとしていた時に皇孫すでに生 ( あ ) れき。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。そこで天照大神は言葉を付け加えて、「此の皇孫を以ちて代えて降 ( あまくだ ) らさんと欲 ( おも ) う」と言った、とある。
続いて、故に天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉 ・八咫鏡 及び草薙剣(天叢雲剣 )の三種宝物 ( みくさのたから ) を賜う(授けた)。
次いで併せて五部 ( いつとものお ) の神を配 ( そ ) えて侍 ( はべら ) しむ(従わせた)、とあり以下がその神である。
天児屋命 ( あめのこやね ) ・中臣 ( なかとみ ) の上祖 ( とおつおや )
太玉命 ( ふとだま ) ・忌部 ( いむべ ) の上祖
天鈿女命 ( あめのうずめ ) ・猿女 ( さるめ ) の上祖
石凝姥命 ( いしこりどめ ) ・鏡作 ( かがみつくり ) の上祖
玉屋命 ( たまのや ) ・玉作 ( たまつくり ) の上祖
そして皇孫に、「葦原千五百秋之瑞穂国 ( あしはらのちいほあきのみずほのくに ) は、これ我が子孫の王 ( きみ ) たるべき地である。皇孫の汝が行って治めよ。さあ行かれよ。宝祚 ( あまつひつぎ ) の隆 ( さか ) んなることまさに天壌 ( あめつち ) と窮 ( きわまり ) 無けん(永続するだろう)」と勅した。これが天壌無窮 ( あめつちときはまりなし ) の神勅 である。
そうして降る間に、先駆の者の還りて、「一柱の神有りて天八達之衢 ( あまのやちまた ) に居り。其の鼻の長さ七咫 ( ななあた ) 、背 ( そびら ) の長 ( たけ ) 七尺 ( ななさか ) あまり。まさに七尋 ( ななひろ ) と言うべし。また口尻 ( くちわき ) 明り光れり。眼は八咫鏡の如くして然 ( てりかがやけること ) 赤酸醬 ( あかかがち ) (ほおずき)に似たり」。
そこで従えていた神を遣わして尋ねに行かせた。この時、八十万神 ( やおよろずのかみ ) がいたが、皆、眼力負けて相い問うを出来ず。そこで(皇孫らは)特に天鈿女命に「汝は眼力の勝(すぐ)れし神である。行て尋よ」と勅す。
以下が天鈿女命と衢神 ( ちまたのかみ ) 猿田彦 の問答である。
天鈿女命:胸をあらわにし、衣の紐を臍 ( へそ ) の下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→ 衢神猿田彦:「天鈿女、汝の為す(そんなことをする)は何の故ぞ」と尋ねた。
天鈿女命:「天照大神の御子(皇孫)が進む道路 ( みち ) に如此 ( かく ) 居 ( いま ) す者有るは誰ぞ。敢て問う」→ 衢神猿田彦:「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」
天鈿女命:「汝、我を将 ( い ) て先 ( さきだち ) て行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→ 衢神猿田彦:「我、先て啓 ( みちひらき ) て行かん」
天鈿女命:「汝は何処 ( いずこ ) に到るや。皇孫は何処に到るや」→ 衢神猿田彦:「天神 の御子、まさに筑紫の日向 ( ひむか ) の高千穗 ( たかちほ ) の触之峯 ( くぢふるのたけ ) に到るべし。我は伊勢の狭長田 ( さなだ ) の五十鈴 ( いすず ) の川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」
その後、天鈿女命還り詣 ( いた ) りて状 ( かたち ) 報 ( かえりこともう ) す、とある。そこで皇孫は天磐座 ( あめのいわくら ) を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降 ( あまくだ ) る。果して先の期 ( ちぎり ) の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗 ( たかちほ ) の触之峯 ( くじふるのたけ ) に到る。
衢神猿田彦は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に辿り着き、天鈿女命は衢神猿田彦の乞う所の随に送り届けた。そこで皇孫は天鈿女命に、「汝は素性を明らかにした神の名をもって姓氏とせよ」と勅し、これによって猿女君の名を授かった、とある。
前半は天照大神が取り仕切る天壌無窮の神勅であり、後半は天鈿女命と猿田彦の問答がメインとなる。
第九段一書(二)
第九段一書(二) では、この時、高皇産霊尊は〜中略〜とあり、以下の神を○○作りと定めた。
紀国 ( きのくに ) の忌部の遠祖の手置帆負神 ( たおきほおい ) :作笠者 ( かさぬい ) と定める
彦狭知神 ( ひこさち ) :作盾者 ( たてぬい ) と定める
天目一箇神 ( あまのまひとつ ) :作金者 ( かなだくみ ) と定める
天日鷲神 ( あまのひわし ) :作木綿者 ( ゆうつくり ) と定める
櫛明玉神 ( くしあかるたま ) :作玉者 ( たまつくり ) と定める
そして太玉命をして、弱肩 ( やわかた ) に太手繦 ( ふとだすき ) 被 ( とりか ) けて御手代 ( みてしろ ) (代表者)とした。また、天児屋命 ( あまのこやねのみこと ) は神事 ( かむこと ) を司る神であった為、太占 ( ふとまに ) の卜事 ( うらこと ) によって仕え奉らしむ、とある。
続いて高皇産霊尊は、「我、則ち天津神籬 ( あまつひもろき ) 及び天津磐境 ( あまついわさか ) を起したてて、まさに我が皇孫の為に祭祀奉らん。汝 ( いまし ) 天児屋命・太玉命は、宜 ( よろ ) しく天津神籬を持 ( たも ) ちて、葦原の中つ国に降りて、また我が皇孫の為に祭祀奉られよ」と勅 ( みことのり ) す。二神 ( ふたはしらのかみ ) を遣 ( つか ) わして天忍穂耳尊 ( あまのおしほみみ ) に従わせて降 ( あまくだ ) らす、とある。
この時、天照大神は手に宝鏡 ( たからのかがみ ) を持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が御子よ、宝鏡を視ること、まさに猶 ( なお ) 我を視るが如くすべし。與 ( とも ) に床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福した。また、天児屋命・太玉命に、「惟 ( これ ) 爾 ( いまし ) 二柱の神、亦 ( また ) 同 ( とも ) に殿の内に侍 ( さぶら ) いて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。また、「我が高天原に所御 ( きこしめ ) す斎庭 ( ゆにわ ) の穂 ( いなほ ) を以ちて、また、まさに我が御子に御 ( しら ) せまつるべし。」と勅す、とある。
そして、高皇産霊尊の女 ( むすめ ) 名は万幡姫 ( よろづはたひめ ) を天忍穂耳尊に配 ( あわ ) せて妃とさせ、降 ( あまくだ ) らせた。その途中に虚天 ( あめ ) に居 ( いま ) して天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた為、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、天児屋命・太玉命及び諸氏族 ( もろとものおのかみ ) の神々を悉く、皆、相い授けき。また、服御之物 ( みそつもの ) 、一 ( もはら ) 前 ( さき ) に依りて授ける。そうした後に天忍穂耳尊はまた天に還る、とある。
それから、天津彦火瓊瓊杵尊は日向の日 ( くしひ ) の高千穗の峯 ( たけ ) に降り立ち、膂宍 ( そしし ) の胸副国 ( むなそうくに ) を頓丘 ( ひたお ) から国覓 ( ま ) ぎ行去 ( とお ) りて、浮渚在平地 ( うきじまりたひら ) に立った。そして、国主 ( くにのぬし ) 事勝国勝長狭を召して訪 ( と ) う。すると彼は「是 ( ここ ) に国有り、取り捨て勅の随 ( まにま ) に。(どうぞご自由に)」と答えた。
そこで皇孫は宮殿を立て、そこで遊息 ( やす ) んだ後、海辺に進んで一人の美人 ( をとめ ) を見かけた。皇孫が、「汝 ( いまし ) 是 ( これ ) 誰が子ぞ。」と尋ねると、「妾 ( やつこ ) は是 ( これ ) 大山祇神 ( おおやまつみ ) が子、名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫。」と答え、さらに、「また、我が姉 ( いろね ) 磐長姫 ( いわながひめ ) 在り。」と申し上げた。皇孫が、「我、汝 ( いまし ) を以ちて妻となさんと欲 ( おも ) う、如之何 ( いかに ) 。」と尋ねると、「妾が父 ( かぞ ) 大山祇神 ( おおやまつみのかみ ) 在り。請 ( ねが ) わくは垂問 ( と ) いたまえ。」と答えた。
皇孫がそこで大山祇神に、「我、汝 ( いまし ) の女子(むすめ)を見る。以ちて妻とせんと欲う。」と語ると、大山祇神は二女(ふたりのむすめ)をして百机飲食 ( ももとりのつくえもの ) を持たしめて奉進 ( たてまつ ) る、とある。
すると皇孫は、姉の方は醜いと思って御 ( め ) さず罷 ( さ ) けき。妹 ( おとと ) は有国色 ( かおよし ) として引 ( め ) して幸 ( あ ) いき。すると一夜にして身籠 ( みごも ) った。そこで磐長姫は大いに恥じ、「仮使 ( たとえ ) 天孫 ( あめみま ) 、妾を斥 ( しりぞ ) けず御 ( め ) さば、生める児 ( みこ ) は寿 ( いのち ) 永く、磐石の常に存るが如くに有らんを、今、既に然らず。唯、弟(妹)独 ( ひと ) りを見御 ( みそなわ ) すは、其の生める児 ( みこ ) は必ず木の花の如く移ろい落ちなん。」と呪詛 を述べた。その後に、神吾田鹿葦津姫異伝を伝えている。
この一書では前半、天児屋命・太玉命を主として描き、後半は磐長姫の逸話を伝えている。
第九段一書(四)
第九段一書(四) では、高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。
この時、大伴連の遠祖である天忍日命 ( あまのおしひ ) が、来目部 ( くめべ ) の遠祖である天槵津大来目 ( あまのくしつのおおくめ ) を率い、背 ( そびら ) には天磐靫 ( あまのいわゆき ) を背負い、腕には稜威高鞆 ( いつのたかとも ) を著け、手には天梔弓 ( あまのはじゆみ ) と天羽羽矢 ( あまのははや ) を取り、八目鳴鏑 ( やつめのかぶら ) を副 ( そ ) え持ち、また頭槌劒 ( かぶつちのつるぎ ) を帯びる、とある
(二柱の神)天孫 ( あめみま ) の前 ( さき ) に立ちて、進み降り、日向の襲 ( そ ) の高千穂の串日 ( くしひ ) の二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地 ( うきじまりたいら ) に立ち、頓丘 ( ひたお ) より国覓 ( ま ) ぎ行去 ( とお ) りて、吾田の長屋の笠狭之御碕 ( かささのみさき ) に辿り到る、とある。
すると、その地に一神 ( ひとはしらのかみ ) 有り。名を事勝国勝長狭 ( ことかつくにかつながさ ) と言う。そこで天孫がその神に、「国在 ( あり ) や」と尋ねると、「在り」と答え、さらに、「勅 ( みことのり ) の随 ( まにま ) に奉らん」と言う。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子である。またの名は塩土老翁 ( しおつちのおじ ) という、とある。
この一書では、瓊瓊杵尊の降臨を主として記述し、天忍日命と天串津大来目のみを随神とする。そして事勝国勝長狭の別名が彦火火出見尊の神話 に登場する塩土老翁だという。
第九段一書(六)
第九段一書(六) では、天忍穂根尊 ( あまのおしほね ) は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫 ( ほのとはたひめ ) の子、千千姫命 ( ちぢひめ ) 、を娶りて生みし子の天火明命 ( あまのほのあかり ) 。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山 ( あまのかぐやま ) が尾張連等の遠祖である。
皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて〜中略〜この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披 ( おしわ ) けて、以ちて降 ( あまくだ ) し奉る。そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊 ( あまつくににぎしほのににぎ ) と言う。時に降り到りし所は、呼びて日向の襲 ( そ ) の高千穂の添山峯 ( そほりのやまのたけ ) と言う。〜中略〜瓊瓊杵尊は吾田 ( あた ) の笠狭之御碕 ( かささのみさき ) に辿 ( たど ) り着き、長屋の竹嶋 ( たかしま ) に登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。
天孫がそこで、「此は誰が国ぞ。」と尋ねると、「これ長狭が住める所の国也。然れども、今、天孫に奉上らん。」と答えた。天孫がまた、「その秀起 ( さきた ) つる浪穂 ( なみほ ) の上に八尋殿 ( やひろとの ) を起 ( た ) てて、手玉 ( ただま ) も玲瓏 ( もゆら ) に織経 ( はたお ) る少女 ( おとめ ) は、是 ( これ ) 誰が子女 ( むすめ ) ぞ」と尋ねると、「大山祇神が女 ( むすめ ) 等、大 ( あね ) を磐長姫 ( いわながひめ ) ともうす。少 ( おとと ) を木花開耶姫ともうし、または豊吾田津姫 ( とよあたつひめ ) ともうす」と答えた〜中略〜皇孫 ( すめみま ) 因りて豊吾田津姫 ( とよあたつひめ ) と招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜それにより母 ( いろは ) の誓 ( うけい ) がはっきりと示した。方 ( まさ ) (本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ。
憶企都茂播 陛爾播誉戻耐母 佐禰耐拠茂 阿党播怒介茂誉 播磨都智耐理誉 (沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ)※意味【沖の海藻は浜辺に打ち寄せらるるが、我は共に寝る事も出来ず。浜の千鳥よ。】
以上がこの一書の内容である。異伝である為、要所要所で略してあるのは他の書と酷似しているからと思われる。
第九段一書(七) では、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫 ( あまよろずたくはたちはたひめ ) がいた、とある。
高皇産霊尊の娘の万幡姫 ( よろづはたひめ ) の娘の玉依姫命 ( たまよりひめ ) 。此の神、天忍骨命 ( あまのおしほね ) の妃となりて、御子の天之杵火火置瀬尊 ( あまのぎほほおきせ ) を生むという、とある。
勝速日命 ( かちはやひのみこと ) の御子の天大耳尊 ( あまのおおみみ ) 。此の神、丹姫 ( にくつひめ ) を娶りて、御子の火瓊瓊杵尊 ( ほのににぎ ) を生むという、とある。
神皇産霊尊 の女 ( むすめ ) 幡千幡姫 ( たくはたちはたひめ ) 、御子の火瓊瓊杵尊 ( ほのににぎ ) を生むという、とある。
天杵瀬命 ( あまのきせ ) 、吾田津姫 ( あたつひめ ) を娶りて、(略)とある。
この一書では異伝を箇条書きに伝える。
第九段一書(八)
第九段一書(八) では、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫を娶りて、妃として生みし御子の天照国照彦火明命 ( あまてるくにてるひこほのあかり ) といい、尾張連等の遠祖 ( とおつおや ) である。
次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊 ( あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ ) この神、娶大山祇神 ( おおやまつみ ) の女子 ( むすめ ) 木花開耶姫命 ( このはなのさくやひめ ) を妃として生みし御子は(略)、とある。
この一書では別の異伝を伝える。