天孫降臨 天孫降臨の概要

天孫降臨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 14:12 UTC 版)

歌川国芳画『日本国開闢由来記』巻二「天津日子番能邇邇芸命あまつひこほのににぎのみこと降臨於筑紫日向之高千穂槵触峰図つくしひむかのたかちほのくしふるがたけにあまくだりたまふづ

天孫族邇邇芸命ににぎのみことが、葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫日向[1][2]高千穂峰天降あまくだった[注 1]

古事記

天孫邇邇芸命の誕生

天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」[5]と言った。

天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」[6]と答えた。邇邇芸命は、天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。

それで二神は、邇邇芸命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。

猿田毘古

邇邇芸命が天降りをしようとすると、天の八衢やちまたに、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。

天孫降臨

邇邇芸命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命玉祖命五伴緒いつとものおが従うことになった。

さらに、天照大御神は三種の神器と思金神手力男神天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

八咫鏡と思金神は伊勢神宮に祀ってある。登由宇気神は伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県さなながたに鎮座する。

天児屋命は中臣連なかとみのむらじらの、布刀玉命は忌部首いむべのおびとらの、天宇受売命は猿女君さるめのきみらの、伊斯許理度売命は作鏡連かがみつくりのむらじらの、玉祖命は玉祖連たまのおやのむらじらの、それぞれ祖神である。

邇邇芸命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂久士布流多気くじふるたけに天降った。

天忍日命天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連おほとものむらじらの、天津久米命は久米直くめのあたひらの、それぞれ祖神である。邇邇芸命は「この地は韓国からくにに向かい、笠沙かささの岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

猿田毘古と天宇受売

邇邇芸命は天宇受売命に、猿田毘古神を送り届けて、その神の名を負って仕えるよう言った。それで、猿田毘古神の名を負って猿女君と言うのである。

猿田毘古神は、阿耶訶あざかで漁をしている時に比良夫貝に手を挟まれて溺れてしまった。底に沈んでいる時の名を底度久御魂といい、泡粒が立ち上る時の名を都夫多都御魂といい、その泡が裂ける時の名を阿和佐久御魂という。

天宇受売命が猿田毘古神を送って帰ってきて、あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇芸命)に仕えるかと聞いた。多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。それで今でもナマコの口は裂けているのである。

木花之佐久夜毘売と石長比売

邇邇芸命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇芸命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇芸命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。

大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約うけひをしたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」[7]と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。

日本書紀

(注)日本書紀の本文と一書あるふみについて:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。

本文

『日本書紀』の第九段本文では、天照大神のみこ正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊まさかあかつかちはやひあめのおしほみみが、高皇産霊尊たかみむすひむすめ幡千千姫たくはたちぢひめを娶りて天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎを生む。

高皇産霊尊は、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を葦原中国のきみとするために、葦原中国の「邪鬼あしきもの」をはらう手立てを八十諸神と相談して講じていた[8]。(国譲り)

天稚彦の派遣から始まる葦原中国平定(国譲り)後、時に高皇産霊尊は真床追まとこおふすまを以ちて、皇孫すめみま天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた。

皇孫は天磐座あまのいはくらを出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威いつ別き道別きて、日向ひむか高千穂峯たかちほのみねに天降った[注 2]

続いて道中の解説後、その地に一人の者がいて、自ら事勝国勝長狭ことかつくにかつながさと名乗った。

皇孫は「国在りやいなや。」と尋ねると、彼は「ここに国は有ります。ねがわくは任意みこころのまにまに過ごしてください。」と答えた。故に皇孫は行って留まり住んだ。

その時、その国に美人たおやめがいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「やつこ天神あまつかみ大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫かしつひめという、とある。その後鹿葦津姫の出産の逸話がある。

最後にしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩御した(「かむざりき」)。そこで筑紫つくし日向ひむか可愛之山えのやまみささぎに埋葬された。

第九段一書(一)

第九段一書(一)では、本文と類似する天稚彦の派遣から葦原中国平定があり、続いて時に天照大神、「若し然らば、早速、我が子を降さん」とみことのりし。まさに降ろうとしていた時に皇孫すでにれき。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。そこで天照大神は言葉を付け加えて、「此の皇孫を以ちて代えてあまくだらさんとおもう」と言った、とある。

続いて、故に天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉八咫鏡及び草薙剣(天叢雲剣)の三種宝物みくさのたからを賜う(授けた)。

次いで併せて五部いつとものおの神をえてはべらしむ(従わせた)、とあり以下がその神である。

  • 天児屋命あめのこやね中臣なかとみ上祖とおつおや
  • 太玉命ふとだま忌部いむべの上祖
  • 天鈿女命あめのうずめ猿女さるめの上祖
  • 石凝姥命いしこりどめ鏡作かがみつくりの上祖
  • 玉屋命たまのや玉作たまつくりの上祖

そして皇孫に、「葦原千五百秋之瑞穂国あしはらのちいほあきのみずほのくには、これ我が子孫のきみたるべき地である。皇孫の汝が行って治めよ。さあ行かれよ。宝祚あまつひつぎさかんなることまさに天壌あめつちきわまり無けん(永続するだろう)」と勅した。これが天壌無窮あめつちときはまりなしの神勅である。

そうして降る間に、先駆の者の還りて、「一柱の神有りて天八達之衢あまのやちまたに居り。其の鼻の長さ七咫ななあたそびらたけ七尺ななさかあまり。まさに七尋ななひろと言うべし。また口尻くちわき明り光れり。眼は八咫鏡の如くしててりかがやけること赤酸醬あかかがち(ほおずき)に似たり」。

そこで従えていた神を遣わして尋ねに行かせた。この時、八十万神やおよろずのかみがいたが、皆、眼力負けて相い問うを出来ず。そこで(皇孫らは)特に天鈿女命に「汝は眼力の勝(すぐ)れし神である。行て尋よ」と勅す。

以下が天鈿女命と衢神ちまたのかみ猿田彦の問答である。

  1. 天鈿女命:胸をあらわにし、衣の紐をへその下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→ 衢神猿田彦:「天鈿女、汝の為す(そんなことをする)は何の故ぞ」と尋ねた。
  2. 天鈿女命:「天照大神の御子(皇孫)が進む道路みち如此かくいます者有るは誰ぞ。敢て問う」→ 衢神猿田彦:「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」
  3. 天鈿女命:「汝、我をさきだちて行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→ 衢神猿田彦:「我、先てみちひらきて行かん」
  4. 天鈿女命:「汝は何処いずこに到るや。皇孫は何処に到るや」→ 衢神猿田彦:「天神の御子、まさに筑紫の日向ひむか高千穗たかちほ触之峯くぢふるのたけに到るべし。我は伊勢の狭長田さなだ五十鈴いすずの川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」

その後、天鈿女命還りいたりてかたちかえりこともうす、とある。そこで皇孫は天磐座あめのいわくらを脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降あまくだる。果して先のちぎりの如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗たかちほ触之峯くじふるのたけに到る。

衢神猿田彦は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に辿り着き、天鈿女命は衢神猿田彦の乞う所の随に送り届けた。そこで皇孫は天鈿女命に、「汝は素性を明らかにした神の名をもって姓氏とせよ」と勅し、これによって猿女君の名を授かった、とある。

前半は天照大神が取り仕切る天壌無窮の神勅であり、後半は天鈿女命と猿田彦の問答がメインとなる。

第九段一書(二)

第九段一書(二)では、この時、高皇産霊尊は〜中略〜とあり、以下の神を○○作りと定めた。

  • 紀国きのくにの忌部の遠祖の手置帆負神たおきほおい作笠者かさぬいと定める
  • 彦狭知神ひこさち作盾者たてぬいと定める
  • 天目一箇神あまのまひとつ作金者かなだくみと定める
  • 天日鷲神あまのひわし作木綿者ゆうつくりと定める
  • 櫛明玉神くしあかるたま作玉者たまつくりと定める

そして太玉命をして、弱肩やわかた太手繦ふとだすきとりかけて御手代みてしろ(代表者)とした。また、天児屋命あまのこやねのみこと神事かむことを司る神であった為、太占ふとまに卜事うらことによって仕え奉らしむ、とある。

続いて高皇産霊尊は、「我、則ち天津神籬あまつひもろき及び天津磐境あまついわさかを起したてて、まさに我が皇孫の為に祭祀奉らん。いまし天児屋命・太玉命は、よろしく天津神籬をたもちて、葦原の中つ国に降りて、また我が皇孫の為に祭祀奉られよ」とみことのりす。二神ふたはしらのかみつかわして天忍穂耳尊あまのおしほみみに従わせてあまくだらす、とある。

この時、天照大神は手に宝鏡たからのかがみを持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が御子よ、宝鏡を視ること、まさになお我を視るが如くすべし。ともに床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福した。また、天児屋命・太玉命に、「これいまし二柱の神、またともに殿の内にさぶらいて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。また、「我が高天原に所御きこしめ斎庭ゆにわいなほを以ちて、また、まさに我が御子にしらせまつるべし。」と勅す、とある。

そして、高皇産霊尊のむすめ名は万幡姫よろづはたひめを天忍穂耳尊にあわせて妃とさせ、あまくだらせた。その途中に虚天あめいまして天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた為、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、天児屋命・太玉命及び諸氏族もろとものおのかみの神々を悉く、皆、相い授けき。また、服御之物みそつものもはらさきに依りて授ける。そうした後に天忍穂耳尊はまた天に還る、とある。

それから、天津彦火瓊瓊杵尊は日向のくしひの高千穗のたけに降り立ち、膂宍そしし胸副国むなそうくに頓丘ひたおから国覓行去とおりて、浮渚在平地うきじまりたひらに立った。そして、国主くにのぬし事勝国勝長狭を召してう。すると彼は「ここに国有り、取り捨て勅のまにまに。(どうぞご自由に)」と答えた。

そこで皇孫は宮殿を立て、そこで遊息やすんだ後、海辺に進んで一人の美人をとめを見かけた。皇孫が、「いましこれ誰が子ぞ。」と尋ねると、「やつここれ大山祇神おおやまつみが子、名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫。」と答え、さらに、「また、我がいろね磐長姫いわながひめ在り。」と申し上げた。皇孫が、「我、いましを以ちて妻となさんとおもう、如之何いかに。」と尋ねると、「妾がかぞ大山祇神おおやまつみのかみ在り。ねがわくは垂問いたまえ。」と答えた。

皇孫がそこで大山祇神に、「我、いましの女子(むすめ)を見る。以ちて妻とせんと欲う。」と語ると、大山祇神は二女(ふたりのむすめ)をして百机飲食ももとりのつくえものを持たしめて奉進たてまつる、とある。

すると皇孫は、姉の方は醜いと思ってさずけき。おとと有国色かおよしとしてしていき。すると一夜にして身籠みごもった。そこで磐長姫は大いに恥じ、「仮使たとえ天孫あめみま、妾をしりぞけずさば、生めるみこ寿いのち永く、磐石の常に存るが如くに有らんを、今、既に然らず。唯、弟(妹)ひとりを見御みそなわすは、其の生めるみこは必ず木の花の如く移ろい落ちなん。」と呪詛を述べた。その後に、神吾田鹿葦津姫異伝を伝えている。

この一書では前半、天児屋命・太玉命を主として描き、後半は磐長姫の逸話を伝えている。

第九段一書(四)

第九段一書(四)では、高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。

この時、大伴連の遠祖である天忍日命あまのおしひが、来目部くめべの遠祖である天槵津大来目あまのくしつのおおくめを率い、そびらには天磐靫あまのいわゆきを背負い、腕には稜威高鞆いつのたかともを著け、手には天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あまのははやを取り、八目鳴鏑やつめのかぶらえ持ち、また頭槌劒かぶつちのつるぎを帯びる、とある

(二柱の神)天孫あめみまさきに立ちて、進み降り、日向のの高千穂の串日くしひの二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地うきじまりたいらに立ち、頓丘ひたおより国覓行去とおりて、吾田の長屋の笠狭之御碕かささのみさきに辿り到る、とある。

すると、その地に一神ひとはしらのかみ有り。名を事勝国勝長狭ことかつくにかつながさと言う。そこで天孫がその神に、「国ありや」と尋ねると、「在り」と答え、さらに、「みことのりまにまに奉らん」と言う。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子である。またの名は塩土老翁しおつちのおじという、とある。

この一書では、瓊瓊杵尊の降臨を主として記述し、天忍日命と天串津大来目のみを随神とする。そして事勝国勝長狭の別名が彦火火出見尊の神話に登場する塩土老翁だという。

第九段一書(六)

第九段一書(六)では、天忍穂根尊あまのおしほねは、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫ほのとはたひめの子、千千姫命ちぢひめ、を娶りて生みし子の天火明命あまのほのあかり。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山あまのかぐやまが尾張連等の遠祖である。

皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて〜中略〜この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披おしわけて、以ちてあまくだし奉る。そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊あまつくににぎしほのににぎと言う。時に降り到りし所は、呼びて日向のの高千穂の添山峯そほりのやまのたけと言う。〜中略〜瓊瓊杵尊は吾田あた笠狭之御碕かささのみさき辿たどり着き、長屋の竹嶋たかしまに登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。

天孫がそこで、「此は誰が国ぞ。」と尋ねると、「これ長狭が住める所の国也。然れども、今、天孫に奉上らん。」と答えた。天孫がまた、「その秀起さきたつる浪穂なみほの上に八尋殿やひろとのてて、手玉ただま玲瓏もゆら織経はたお少女おとめは、これ誰が子女むすめぞ」と尋ねると、「大山祇神がむすめ等、あね磐長姫いわながひめともうす。おととを木花開耶姫ともうし、または豊吾田津姫とよあたつひめともうす」と答えた〜中略〜皇孫すめみま因りて豊吾田津姫とよあたつひめと招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜それによりいろはうけいがはっきりと示した。まさ(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ。

憶企都茂播 陛爾播誉戻耐母 佐禰耐拠茂 阿党播怒介茂誉 播磨都智耐理誉(沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ)※意味【沖の海藻は浜辺に打ち寄せらるるが、我は共に寝る事も出来ず。浜の千鳥よ。】

以上がこの一書の内容である。異伝である為、要所要所で略してあるのは他の書と酷似しているからと思われる。

第九段一書(七)では、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫あまよろずたくはたちはたひめがいた、とある。

  • 高皇産霊尊の娘の万幡姫よろづはたひめの娘の玉依姫命たまよりひめ。此の神、天忍骨命あまのおしほねの妃となりて、御子の天之杵火火置瀬尊あまのぎほほおきせを生むという、とある。
  • 勝速日命かちはやひのみことの御子の天大耳尊あまのおおみみ。此の神、丹姫にくつひめを娶りて、御子の火瓊瓊杵尊ほのににぎを生むという、とある。
  • 神皇産霊尊むすめ幡千幡姫たくはたちはたひめ、御子の火瓊瓊杵尊ほのににぎを生むという、とある。
  • 天杵瀬命あまのきせ吾田津姫あたつひめを娶りて、(略)とある。

この一書では異伝を箇条書きに伝える。

第九段一書(八)

第九段一書(八)では、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫を娶りて、妃として生みし御子の天照国照彦火明命あまてるくにてるひこほのあかりといい、尾張連等の遠祖とおつおやである。

次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎこの神、娶大山祇神おおやまつみ女子むすめ木花開耶姫命このはなのさくやひめを妃として生みし御子は(略)、とある。

この一書では別の異伝を伝える。


ノート

  1. ^ 小学館 大辞泉熊襲 くまそコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  2. ^ 襲国』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  3. ^ 日本書紀 30巻. 国立国会図書館
  4. ^ 訓読日本書紀. 中 黒板勝美 (岩波書店) p.7 国立国会図書館
  5. ^ 原文:「今平訖葦原中国矣 故汝当依命下降而統之」『古事記
  6. ^ 原文:「僕者将降装束之間 生一子 其名天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命 此子応降也」『古事記』
  7. ^ 原文:「我之女二並立奉者有因 使石長姫者 天神御子之命雖雪零風吹 恒可如石而常堅不動坐 亦使木花之佐久夜姫者 如木花之栄栄坐 因立此誓者而使二女貢進 今汝令返石長姫而独留木花之佐久夜姫 故今後天神御子之御寿者 将如木花之稍縦即逝矣」『古事記』
  8. ^ 黒板勝美『訓読日本書紀. 上巻』上巻、岩波書店〈岩波文庫〉、1943年4月。doi:10.11501/1904260NDLJP:1904260https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003990511。"国立国会図書館デジタルコレクション"。 
  9. ^ 谷有ニ‐日本近代の《朝鮮観》 .rshttps://archives.bukkyo-u.ac.jp › rp-contentsPDF
  10. ^ 襲国』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  11. ^ 小学館 大辞泉『熊襲 くまそ』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  12. ^ 金政起「古代北九州と朝鮮半島南部との共同文化圏について」『アジア太平洋研究』第43巻、成蹊大学アジア太平洋研究センター、2018年11月、81-97頁、CRID 1390291767726442752doi:10.15018/00001159hdl:10928/1148ISSN 0913-8439 
  13. ^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)、澤田洋太郎『アジア史の中のヤマト民族』(新泉社、1999年)
  14. ^ 詔旨子細採□【手庶】然上古之時言意並朴敷文構句於字即難已因訓述者詞不逮心全以音連者事 ... 以後、朝鮮神話・北方民族神話との類似性を指摘した三品彰英
  1. ^ 神武天皇「昔我天神高皇産霊尊大日孁尊挙此豊葦原瑞穂国而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。」(日本書紀第3巻)[3]とある。昔に、天神、高皇産霊尊、大日孁尊はこの豊葦原瑞穂国を、私の先祖である瓊瓊杵尊にお与えになった、という意味[4]
  2. ^ 大祓詞にも同じ記述がある。


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