埤雅 埤雅の概要

埤雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/08 19:30 UTC 版)

成立

宋史』陸佃伝によると[1]、陸佃はを農師といい、越州山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)の人であった。王安石の門人であり、王安石の改革には必ずしも賛成でなかったが、改革が失敗に終わった後も忠誠をつくした。神宗哲宗徽宗に仕え、官は尚書左丞にのぼった。なお、陸游は陸佃の孫である。

陸佃の没後、子の陸宰によって宣和7年(1125年)に書かれた『埤雅』の序文によれば、陸佃は『詩経』中の動植物(名物学[2])に関する深い知識があった。北宋の神宗が熙寧年間に科挙の改革を行い、試験範囲から詩賦を除いて経学を主とするようになって以降、陸佃の講義は人気が高まった。陸佃はその内容を書物にすることを提案し、まず説魚・説木の2篇を神宗に進上した。はじめ書物は『物性門類』という題であったが、完成前に神宗が崩御した。その後、陸佃は40年をかけて書物を改訂し、『爾雅』の補佐となる書物という意味で『埤雅』と名づけた。

直斎書録解題』に『詩物性門類』8巻が見え、著者不明だが、おそらく『埤雅』の稿本であろうと言っている。平安時代日宋貿易において、1151年藤原頼長が宋の商人劉文冲に要望した書物一覧にも、『詩物性門類』と推定される書物が含まれている[2][3]

構成・内容

『埤雅』は、釈魚(2巻)、釈獣(3巻)、釈鳥(4巻)、釈虫(2巻)、釈馬(1巻)、釈木(2巻)、釈艸(4巻)、釈天(2巻)の8篇20巻からなる。総目の巻20の末に「後欠」とあることから、これが完全なものではないのかもしれない。釈馬以外の各篇は『爾雅』にも同じ分類が見える。

項目数は297にすぎないが、『爾雅』と異なり、百科事典的な長大な説明を施している。

四庫提要』によれば、『埤雅』の内容は雑駁であるが、現在は見られない多くの書物を引いていることは評価される[4]

近い時代の同様の書物に、南宋の羅願による『爾雅翼』がある。

外部リンク

関連項目


  1. ^ 『宋史』巻343・陸佃
  2. ^ a b 陳捷 著「経学註釈と博物学の間 江戸時代の『詩経』名物学について」、陳捷 編『医学・科学・博物 東アジア古典籍の世界』勉誠出版、2020年。ISBN 978-4-585-20072-7 246頁。
  3. ^ 『宇槐記抄・中』仁平元年(1151年)9月24日
  4. ^ 四庫全書総目提要』 巻40・埤雅https://archive.org/stream/06061319.cn#page/n34/mode/2up。"然其詮釈諸経、頗拠古義。其所援引、多今所未見之書。其推闡名理、亦往往精鑿。謂之駁雑則可、要不能不謂之博奧也。"。 


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