交通戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 15:20 UTC 版)
概要
日本の道路は奈良時代から整備されたが、馬車が普及したヨーロッパや中国と異なり、車両の通行については考慮されず、馬と徒歩に特化した道路であった。江戸時代になっても大八車の使用も大都市を除いて許されず、明治時代にようやく大八車の使用が解禁され、馬車や人力車の使用ができるようになった。大正時代に自動車が輸入され、昭和時代に入ると軍用輸送のために自動車が通りやすい道路への改修が行われ[1]、まずトラックとバスが普及した。しかし太平洋戦争によって中断した。経済が飛躍的な成長を遂げる中、道路は歩行者の通行を考慮しない自動車通行優先の整備が行われ続け、モータリゼーションによる戦後の自動車台数の急激な増加は交通事故の増大を招いた[1]。
1946年(昭和21年)の交通事故発生件数は全国で1万2504件、死者数は4409人であった[1][2]。昭和30年代(1955年 - 1964年)はトラックなどの商用車が主流だったが、小型の乗用車も増えてくる。交通事故件数もうなぎ上りに年々増加し、特に道路交通における弱者である歩行者や自転車の死亡事故が増え、1959年(昭和34年)には死者数が1万人を突破した[1][2]。このころから「交通戦争」という言葉が生まれ[1]、流行語になるほど車による事故は多発し[2]、大気汚染などの自動車公害も深刻化していった。当時、歩道や信号機の整備は十分ではなく、自動車への規制取り締まりも不十分であったことや、死者は歩行者がもっとも多く、特に子供や高齢者といった交通弱者、なかでも多数の幼児が犠牲となったことから、人々の自動車規制強化を望む声は高まっていった。
乗用車が増加していった背景には、1955年(昭和30年)にトヨタがクラウンを発表、後を追って、トヨタ・コロナ(1957年/昭和32年)、富士重工業・スバル360(1958年/昭和33年)、日産・ブルーバード(1959年/昭和34年)に代表される小型車・軽自動車などの乗用車の販売が増え、さらには1966年(昭和41年)に、日本における自動車急増の要因となった日産・サニーとトヨタ・カローラが発表されたことがある。自動車への規制取り締まり強化や、歩道・信号等の弱者保護インフラの整備が不十分な中、重大事故の増加はさらに深刻になり、交通事故死亡者数も増え続けていった。
高度成長期の商用車、乗用車の増加に自動車への規制取り締まり強化や歩行者・自転車インフラの整備等の根本的な交通施策が欠落した行政の責任もあり、交通事故による死者数は1970年まで増加の一途をたどる。
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