交通戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 15:20 UTC 版)
対策
「交通戦争」が問題視され始めた昭和30年代当時、関係者の間では交通安全の対策として、教育(英:Education)・法制(英:Enforcement)・技術(英:Engineenring)の三つの対策が少なくとも必要とされ、英語頭文字をとって「3E対策」とよばれた[1]。第一の教育は歩行者と運転者の双方に必要で、特に歩行者は年齢層に関係なく幅広い層に必要とされた[1]。第二の法制は交通取締の対策のことで、第三の技術は安全に関する技術のことである[3]。
交通安全施設をとってみると、公安委員会(警察)が設置する交通信号機、道路管理者が設置する歩道、立体横断施設(横断歩道橋・地下横断歩道)、道路照明、防護柵(ガードレール)、あるいは道路標識や道路情報装置等多彩なものが展開された[3]。特に歩道に関しては、都市部の街路にはもともと歩道の規定は設定されていたが、地方部ではその規定は設定されていなかったため、1970年(昭和45年)の道路構造令改正のときに初めて規定が設けられ、日本の道路史上画期的なことであると評価された[3]。
東京都では1964年の東京オリンピックに向けた大規模な工事が始まり、法律で定められた速度以上で暴走する交通犯罪走行トラックの急増とともに、大勢の児童らが交通事故により犠牲となったことから、都は1959年(昭和34年)から緑のおばさん運動を開始、23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振ることで子どもたちの安全確保に努めた。しかし現在でも、速度超過や横断歩行者等妨害等違反の自動車が日常的に見受けられるほど安全運転意識の欠落が見られる状態であり、交通監視員がいない状態でも自動車に安全運転をさせる施策の整備が急務な状態にある。
また、警察は交通事故の危険から身を守るための知識や技能を習得することに重点を置いた交通安全教育を行うようになった。全国交通安全運動では「歩行者の安全な横断の確保」を運動の重点とした。1960年(昭和35年)頃には「止まって、見て、待って歩く」習慣を身につけるための指導が行われ、1965年(昭和40年)前後には「横断の際、手を上げて合図する運動」が推進されたが、自動車による速度超過違反や横断歩行者等妨害等違反の蔓延もあり、効果は限定的であった。
また、現行法でも横断歩道において歩行者、または自転車横断帯において自転車の通行を優先させるために自動車が停止しなければ、自動車側の違反である横断歩行者等妨害等違反が成立し、接触事故を起こせば免許停止、免許取消といった重い行政処分や、罰金や懲役、禁錮などの刑事処分を受けることもある。自動車で重大事故を起こせば実名が報道されることも珍しくない。
自動車による交通違反行為の蔓延と、自動車が子供を死亡させる凄惨な事故が相次ぐ中、自動車交通犯罪のさらなる厳罰化の声も高まっていった。自動車交通犯罪の罰則も強化され、1968年(昭和43年)には業務上過失致死傷罪の最高刑が禁錮3年から懲役5年に引き上げられた(昭和43年法律第61号)。
1970年(昭和45年)代に入ると、主に繁華街において「人と車との分離」を目的として、欧米で行われていた「カー・フリー・ゾーン」の取り組みを参考に歩行者天国を実施する自治体が増加した。
1970年(昭和45年)の死者数は1万6765人とピークに達したが[3]、その後は1973年(昭和48年)に発生したオイルショックの影響で日本国内の自動車保有台数の伸びが頭打ちとなったことに加え、交通弱者である歩行者を交通事故から守るため、歩道やガードレール、横断歩道橋の整備を積極的に行ってきたことや、交通違反者に対する罰則強化、交通安全運動を推進したことが成果として現れ、1979年(昭和54年)には死者8048人とピーク時の半分にまで減少した[2]。
交通戦争と同じ種類の言葉
- 交通戦争のページへのリンク