メリーランド州の歴史 メリーランド州の歴史の概要

メリーランド州の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 05:13 UTC 版)

メリーランド州章
メリーランド州旗

コロンブス以前

この地域に最初の人類が現れたのは紀元前1万年頃に最後の氷期が終わったときと考えられている。彼らは狩猟採集を行う半遊牧民であった。この地域の環境の変化に順応し、鹿のような小動物を狩るために槍を開発し、紀元前1500年頃までに普及するようになった。カキが重要な食料源であった。食料の種類が増えていくに連れて、先住民族は集落を形成するようになり、社会構造も複雑になっていった。紀元前1000年頃までに土器が製造された。農業の開始と共にその集落は恒久的な形を取った。しかし、農耕を始めたと言っても、狩猟と漁労がまだ大きな食料確保の方法であった。西暦800年頃には弓矢が狩猟の道具となった。川などの水域で殺し、育てあるいは捕まえるものを食べていた。

ヨーロッパ人は1600年代初期までメリーランドの先住民族に遭遇しなかった。主な種族としては東海岸にナンティコーク族、西海岸にポウハタン族とサスケハナ族がいた。最初の遭遇からおよそ1世紀以内にヨーロッパ人に押し出される形で先住民族はほとんどこの地域からいなくなった。ショーニー族が最後に残った先住民族であったが、1740年代にはメリーランド西部から消えた。

ヨーロッパ人による初期の探検

1498年最初のヨーロッパ人探検者が東海岸、現在のウースター郡の沖を航海した。次に訪れたのは1524年フランスの国旗を掲げた船に乗るイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノで、チェサピーク湾の入り口を通過した。チェサピーク湾には、スペイン領フロリダの知事や、ジェームズタウンを作ったジョン・スミスも訪れた。

メリーランド植民地

メリーランド植民地

初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートがイングランドチャールズ1世からメリーランド植民地となる地域の勅許を新しく得た。カルバートは1632年4月に死に、6月20日に勅許はその息子第2代ボルティモア男爵カシリアス・カルバートに引き継がれた。歴史家の中には、このことを父親の初代男爵が1625年カトリック教徒宣言で国務大臣の職を奪われたことに対する代償と見るものもいる。この植民地はヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス王妃の栄誉を称えて名付けられた[1]。勅許で与えられた名前は"Terra Mariae, anglice, Maryland"であった。ラテン語の名前よりも英語の名前が好まれたのは「Mariae」がスペインイエズス会士フアン・デ・マリアナに通じることを嫌われたことも影響した[2]

ボルティモア卿は頑固なカトリック教徒であり、それは17世紀のイギリス貴族には極端に不名誉なものであった。彼は当初、ニューファンドランド島の東部(アバロン半島)に入植地を築き、迫害されるカトリック教徒を入植させようとした。1623年には勅許を得て植民地にアヴァロン領と名付け、1625年には功績を讃えられ初代ボルティモア男爵に任ぜられた。しかしニューファンドランドは冬の寒さや年中吹く強風などが厳しく、1629年にはアヴァロンを放棄して南の地への移転を模索することになった。こうして探し当てられた地が後のメリーランド植民地である。

開拓者を呼び寄せるためにメリーランドはヘッドライト・システムと呼ばれる仕組み(大西洋の渡航費を払える者に一定の広さの未開土地を与える仕組み)を使った。

カシリアス・カルバートの弟、レナード・カルバートに率いられた最初の移民は1633年11月22日ワイト島のカウズを、アーク(箱船)とダブ(鳩)という名の2隻の小さな船で出発した。彼らがメリーランド南部のセントクレメント島に上陸した1634年3月25日は現在でも毎年メリーランドの日として州内で祝われている。アメリカの植民地で初めてカトリックのミサが行われた場所としても知られている。このミサはアンドリュー・ホワイト牧師が行った。最初の移民は17名の紳士とその妻およびその他約200名であった。ヤオコミコ・インディアンから土地を購入し、セントメアリーズ市の町を建設した。レナードは兄の指示に従って、当初封建制の考え方で国を支配しようとした。しかし、これは抵抗され、1635年2月、植民地議会を招集する必要があった。1638年、議会はイギリスの法に従って統治するよう要求し、続いて法を定める権利が議会を通過した。

1638年、カルバートはバージニア植民地のウィリアム・クレイボーンによって設立されたケント島にある交易基地を占領した。1644年、クレイボーンはメリーランドのプロテスタントによる蜂起を率いた。カルバートはバージニアに逃亡したが、1646年に軍隊の長に復帰し領主支配を再開した。

メリーランドは間もなくアメリカのイギリス植民地の中でも数少ないカトリックが支配的な地域の1つになった。またイギリスで流罪を宣告された者何万人もの流刑地の1つにもなり、これはアメリカ合衆国の独立時まで続いた。1649年に制定されたメリーランド寛容法は明確に信教の自由を認めた最初の法律(キリスト教に限られてはいた)であり、時にはアメリカ合衆国憲法修正第1条の先駆けとも見られる。

植民地の首都セントメアリーズ市の都市計画は植民地創設者の原則を反映する形で作られた。市の中心には市長の家があった。この地点から通りは2つの3角形を造るように配置された。三角形の2点を結んで西に伸ばした地点には、メリーランドで最初の庁舎と刑務所が置かれた。市長の家の北方、2番目の3角形の残りの2点にはカトリック教会と学校があった。この都市計画は文字通り教会と政府を分離するものであり、信教の自由の重要性を補強するものであった。

セントメアリーズ市は当初のメリーランド植民地では最大の地域であり、1708年まで植民地政府が置かれた。バージニア植民地がイングランド国教会を義務付けた後、多くのピューリタンがバージニアからメリーランドに移り住み、プロビデンス(現在はアナポリス)と呼ばれる開拓地を与えられた。1650年、ピューリタンは領主政府に対して反乱を起こし、カトリックとイングランド国教会を違法とする新しい政府を打ち立てた。1655年3月、カシリアス・カルバートはウィリアム・ストーン知事の指揮で軍隊を送り、反乱を鎮圧しようとた。アナポリスの近くのセバーンの戦いで、カルバートのローマ・カトリック軍はピューリタンの軍隊に決定的な敗北を喫した。ピューリタンの革命は1658年まで続き、カルバート家が再度支配権を取り戻し、寛容法も再度施行した。

ピューリタンの革命政府によってメリーランドのカトリック教徒に対する迫害が続いている間、メリーランド南部にあった当初のカトリック教会はすべて焼失した。セントメアリーズ市は現在考古学的な場所となっており、小さい観光案内所もある。1708年、政府はプロビデンスに移されて、名前もアン女王の栄誉を称えアナポリスに変えられた。

セントメアリーズ市の都市計画が植民地創設者の理想を反映したように、アナポリスの都市計画は18世紀当時の為政者の理想を反映した。アナポリスの都市計画は市中心を中点とする2つの円を描き、1つの円の内側には政府庁舎と教会が含まれた。この都市計画では、教会と政府の間のより強い関係を反映しており、植民地政府はプロテスタント教会と密接な同盟関係にあることを示していた。

メリーランドに対する勅許は当初不正確な地図に基づいており、その領域はポトマック川から北緯40度線まで拡げられていた。このことは、ペンシルベニア植民地の主要都市フィラデルフィアまでメリーランドに含まれることになり、問題が生じた。メリーランドを支配するカルバート家とペンシルベニア植民地を支配するペン家が協議して、1750年にチャールズ・メイソンとジェレマイア・ディクソンという2人の測量士に測量させ、2つの植民地の境界を後にメイソン=ディクソン線と呼ばれる線に定めた。1820年ミズーリ妥協によって作られた政治的条件によって、メイソン=ディクソン線は奴隷制の歴史に重要なものとなり、奴隷制の拡張はこの線より南でのみ認められることになった。

独立戦争

メリーランドは当初イギリスからの独立を望まず、大陸会議に送った代議員にもそのような指示が与えられていた。独立前夜の時期、メリーランドの領域内は郡代表の議会である自由人の議会によって治められた。最初の議会は1774年6月22日から25日の4日間開催され、当時存在した16郡から92名の代議員が集まった。議長にはマシュー・ティルマンが選ばれた。

8回目の会合で、会議による従来の政府を続けることは、植民地のあらゆる関係者にとって良い方法ではないということになった。より恒久的で組織だった政府が必要とされた。1776年7月3日、メリーランドで最初の憲法を起草する責任を持たせた議員による新しい会議を起こすことを決め、その憲法にはイギリスの議会や国王に言及せず、「人民のみの」政府にすることとした。一旦会期が決められ各郡に送る通知が準備されたあとで会議は延期された。8月1日、財産のある全自由人が最後の会議のための代議員を選出した。9回目で最後の会議は1776年の憲法制定会議とも呼ばれる。この会議で憲法を起草し、次の会議は11月11日と決められたが、再び会することは無かった。この会議はメリーランド憲法で定められた議会に引き継がれた。トマス・ジョンソンがメリーランドで最初に選挙で選ばれた知事になった。

1781年3月1日、メリーランドが批准したことで連合規約が効力を発揮することになった。連合規約は大陸会議から各邦の批准を求めて1777年11月17日に送られてきたが、その批准のために何年も掛かったのは、西部のまだ開拓されていない土地に関する各邦の領有権主張が収まっていなかったからであった。メリーランドが最後まで保留していたのは、バージニアとニューヨークの2邦がオハイオ川渓谷の領有権主張を取り下げるまでは批准しないとしていたためであった。イギリスに反抗した全植民地が連合規約を批准したのが1781年であった。

Marylander ジョン・ハンソン連合規約下の連合会議で議長の任期を全うした最初の人。

メリーランドでは独立戦争の重要な戦闘は起こらなかった。しかし、このことは邦内の兵士がその従軍で傑出した働きをすることを妨げるものではなかった。ジョージ・ワシントン大陸軍に従軍するメリーランドの正規兵に強い印象を抱き、ある歴史家によれば、メリーランドに「オールド・ライン・ステイト」(古き線の邦)という名前を与えさせることになった[3]。今日、「オールド・ライン・ステイト」はメリーランド州の2つある公式ニックネームの1つになっている。

メリーランドは独立戦争中に他の役割も果たした。例えば、大陸会議は1776年12月20日から1777年3月4日までボルチモアで開かれた。さらにメリーランド出身のジョン・ハンソンは1781年から1782年まで、連合会議の議長(プレジデント)を務めた。ハンソンは連合規約下の連合会議で議長の任期を全うした最初の人であった。このことからハンソンはアメリカ合衆国の最初のプレジデントと呼ばれることがある。

1783年11月26日から1784年6月3日、アナポリスはアメリカ合衆国の首都とされ、連合会議はメリーランド議事堂で開催された。アナポリスはワシントンD.C.が建設されるまで、新しい国の恒久的首都の候補であった。1783年12月23日、ワシントンが大陸軍の総司令官職を辞任したのはメリーランド上院の議場であった。独立戦争を終わらせる1783年パリ条約1784年1月14日、アナポリスで批准された。


  1. ^ Maryland At a Glance. Retrieved on 2007-02-07.
  2. ^ Stewart, George R. (1967) [1945]. Names on the Land: A Historical Account of Place-Naming in the United States (Sentry edition (3rd) ed.). Houghton Mifflin. pp. 42-43 
  3. ^ http://www.mdarchives.state.md.us/msa/mdmanual/01glance/html/nickname.html
  4. ^ see Federal Hill, Baltimore





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