メリーランド州の歴史 南北戦争後から第一次世界大戦まで

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メリーランド州の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 05:13 UTC 版)

南北戦争後から第一次世界大戦まで

戦後の政治的発展

メリーランド州は南北戦争中も北軍に留まったので、アメリカ連合国に加入した州のようなレコンストラクションを経験しなかった。しかし、以前の奴隷州として、他の州と同様に公民権や人種差別に関わる多くの問題を経験した。北軍に加わった者と南軍に加わった者との間の深い溝を修復する必要があった。

トマス・スワン。1864年メリーランド州憲法で選出された唯一の知事

民主党は戦争中に州政府を握っていた共和党から主導権を取り戻した。共和党から権力が移っていくとともに、1864年メリーランド州憲法の支持が終わり、1867年メリーランド州憲法に置き換えられた。この憲法は1851年のものに似ており、州内人口の54.1%に承認された。しかし、議会議員定数を郡に平等ではなく人口に比例して配分することで、解放された黒人に大きな力を与えることになり、以前の憲法でアフリカ系アメリカ人に与えていた特権の多くを取り消すことになった。

オースティン・レイン・クロザーズ知事

その後の数十年間、州内のアフリカ系アメリカ人の位置付けが常に問題となった。この問題は、州憲法に対する1910年のディッジェス修正条項の提案でメリーランドの政治の最前線に浮かび上がった。この修正条項は資産条件をつけることで、州内の多くのアフリカ系アメリカ人(さらに移民)の公民権を奪うことが意図された。この議案はメリーランド州議会を通り、州知事オースティン・レイン・クロザーズの承認を得たが、州民の承認を必要とした。州民が修正条項に投票する機会がある前に、ディッジェス修正条項の要求事項を法に落とすことができる法案が提案された。この方法は住民の激しい抗議で失敗しただけでなく、修正条項そのものも住民投票で拒否された。これは黒人の公民権を奪う修正の中でも最も顕著な拒否となった。少なくとも他に2つの提案、1905年のポー守勢条項と1909年のストラウス修正条項で黒人の投票権を制限する提案がなされ、成立しなかった。またその後の数年間にも幾つかそのような提案がなされた。

発展期の改革

20世紀初期に、新興の中流階級を中心に政治改革運動が盛り上がった。その目的の1つに政府の職は支援者よりも個人の長所を元に認められるべきというものがあった。他にも政界のボスやマシーンの力を削ぐ目的のものがあり、結果は成功した。

1892年から1908年までに成立した一連の法律で、投票用紙に以前は政党の印が入っていたものを等しく州が発行したものに置き換え、党の作業者が投票を「援助」しないように閉じられる投票ブースを設け、党の大物が候補者を選ばないように予備選挙を始めた。候補者のリストから党のシンボルマークを外したが、これは文字を読めない人の参加意欲を削いだ。民主的改革として推進されたが、これらの改革には中流階級が求めている効果があった。下層階級や文字の読めない者は投票に行くことを憚られた。1890年代の投票率は有資格者の82%であったが、1920年代には49%にまで落ちた。

他にも州内の働く男女を助けた法が成立した。例えば、1902年に成立した一連の法律は鉱山で働く者の労働条件を規制した。12歳未満の児童労働を禁じ、義務教育を受けることを規定し、国内では初めての労災補償を法律化した。労災補償法は裁判所で否定されたが、再度提案され1910年に施行になった。この法は数十年後に連邦法の基になった。

禁酒法に関する議論で嘲笑する新聞論説がメリーランド州を「自由の州」と呼んだときにメリーランド州には2つ目の渾名が付き、より進歩的な議論が長く続くことになった。

ボルチモアの大火

ボルチモアの大火の火事跡

1904年ボルチモアの大火英語版はメリーランド州の大都市や州全体にとって重大な出来事だった。火は2月7日日曜日午前10時48分からボルチモアの町を襲い、翌日8日月曜日午後5時まで燃え続けた。鎮火させるために1,231人の消防士が動員された。

火事が長引いた原因の一つに消火用具に国の標準が無かったことが挙げられた。フィラデルフィアやワシントンのような近くの都市の消防車やニューヨーク市、ウィルミントンおよびアトランティックシティの消防隊が出動したが、その消火ホースの継ぎ手がボルチモアの消火栓のものに合わず用を足さなかった。その結果は火事は30時間以上にわたって続き、70ブロックに跨る1,526戸の建物を破壊した。

この後、35,000人が失業した。火事の後、市内の建物は花崗岩のような耐火性の高い材料を使って建て直された。

第一次世界大戦

アメリカ合衆国は当初第一次世界大戦に巻き込まれることを避けようとした。それはヨーロッパの紛争であった。しかし、最終的には大戦に引き込まれていった。もちろん。このことは国全体に多くの変化をもたらし、メリーランド州も例外ではなかった。

メリーランド州には1917年に造られたキャンプ・ミード(現在のフォート・ミード)やアバディーン性能試験場および翌年に造られたエッジウッド武器庫のような新しい軍事施設ができた。他にもマクヘンリー砦のような既存の施設は大きく拡張された。

連邦施設の拡張のような州内の戦時行動を調整するために、州議会は防衛委員会を作った。この委員会の定数126は州内の著名人で埋められた。この委員会は実質的に予算に制限が無く、州の防衛、徴兵の監督、賃金や物価の管理、戦争関連産業の労働者宿舎、および戦争支援の促進に予算が充てられた。市民は自分のビクトリー・ガーデンでの食料栽培を奨励され配給法に従わされた。議会が防衛委員会の支援で強制労働法を採択すると労働を強いられることもあった。


  1. ^ Maryland At a Glance. Retrieved on 2007-02-07.
  2. ^ Stewart, George R. (1967) [1945]. Names on the Land: A Historical Account of Place-Naming in the United States (Sentry edition (3rd) ed.). Houghton Mifflin. pp. 42-43 
  3. ^ http://www.mdarchives.state.md.us/msa/mdmanual/01glance/html/nickname.html
  4. ^ see Federal Hill, Baltimore





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