メリーランド州の歴史
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20世紀
リッチーの政治
1918年、民主党のアルバート・C・リッチーが州知事に選ばれた。その後も4度選ばれたので任期は1919年から1934年と15年間におよび、州の歴史の中でも疑いもなく最も人気のある知事である。均整の取れて貴族的雰囲気のリッチーは大変仕事熱心だった。政府の運営面を簡素化するために管理会社を雇い、経済専門家によって管理された予算策定法を作った。以前から長く改革を叫ばれていた公務員制度に対する承認も得た。政府の役職者は支持者ではなく長所のあることを基に与えられた。議員の任期を2年間から4年間に伸ばして選挙の数を減らした。また政府のあらゆる側面に助言をする市民の委員会を指名した。
州の固定資産税はリッチーの時に大きく下がったが州の公共事業も減った。州の強力な映画検閲委員会は大衆から破壊的概念を遠ざけた。リッチーは1924年と1932年を含み3度大統領候補となって、クーリッジやフーバー大統領を救いようのない浪費家と言った。
一方、アメリカ合衆国議会は1919年6月にアメリカ合衆国憲法修正第19条を各州の批准を求めて送った。この修正条項は女性の参政権を求めるものであったが、1920年2月24日、メリーランド州議会は批准を拒否した。しかし、6ヶ月後にテネシー州が36番目の批准を行った州となり、修正条項は成立した(メリーランド州は最終的に1941年3月29日に批准したが、純粋に象徴的なものだった)。1920年アメリカ合衆国大統領選挙はメリーランド州で女性が投票した最初の選挙になった。メリーランド州は共和党のウォレン・ハーディング候補を支持し、勝者となった。
リッチーは1932年に民主党の大統領候補になろうとしたが失敗した。党員集会で支持を訴える大規模なデモンストレーションを打ったが、フランクリン・ルーズベルトが指名され選挙でも勝利した。リッチーは1935年まで知事職を続けた。その引退の時に、ある新聞が彼は「メリーランド州最も偉大な知事だ」と書いた。しかし、国の他の地域や世界中の多くの国と同様に、メリーランド州は世界恐慌の最中にあった。
大恐慌と第二次世界大戦
メリーランド州が世界的な不況の間に経験したことは特に特徴あるものではなかったが、1932年「ボーナスアーミー」が州中を行進してワシントンD.C.に向かったことは特筆される。ルーズベルト大統領が主導する国中のニューディール政策に加えて、メリーランド州も苦難の時を克服する手段を採った。例えば1937年、初めて所得税を採用した。
メリーランド州でも公民権については前進があった。1935年の「マレー対ピアソン事件」ではボルチモア市裁判所がメリーランド法律学大学の統合を命令した。この事件の原告は全米有色人種地位向上協会で働く若い弁護士でボルチモア生まれのサーグッド・マーシャルが代表していた。検事総長は州内の最高裁判所であるメリーランド控訴裁判所に上告したが、そこでも1審を支持した。メリーランド州が連邦裁判所に上告しなかったため、このアメリカ合衆国憲法に基づく州内の判例は初めて、1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」で人種差別を認める最高裁判決を覆すことになった。これは道徳的慣例となったが、法的なものではなく、州のそとでは効力を発揮していない。
- ^ Maryland At a Glance. Retrieved on 2007-02-07.
- ^ Stewart, George R. (1967) [1945]. Names on the Land: A Historical Account of Place-Naming in the United States (Sentry edition (3rd) ed.). Houghton Mifflin. pp. 42-43
- ^ http://www.mdarchives.state.md.us/msa/mdmanual/01glance/html/nickname.html
- ^ see Federal Hill, Baltimore
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