ヒメヒコ制 概説

ヒメヒコ制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 05:34 UTC 版)

概説

高群逸枝が自著『母系制の研究』(1938年)において提唱した仮説によれば、ヤマト王権が成立する前後の古代日本では、祭祀的・農耕従事的・女性集団の長のヒメ(あるいはミコトベを称号とした)と軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコ(あるいはタケル、ワケあるいはを称号とした)が共立的あるいは分業的に一定地域を統治していたとされている。また、高群によれば、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』などの文献には宇佐地方ウサツヒコとウサツヒメ[2]阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ[3]加佐地方丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ[4]、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたとしている。ならびに『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したとしている[5]。そのようなヒメ・ヒコの首長はその地の神社の由来となっている例もあり、ヒメやヒコを神社名や祭神名にしている地域は、かつてヒメヒコ制の統治があったことの傍証とも言えるとしている。

ヒメ・ヒコの男女二重主権のヒメは奈良時代まで続いたと見られ、ヒコは5、6世紀に父系的政治社会に転換したとみられている[6]

地方のヒメ・ヒコ

ヤマト王権が成立する以前、地方に見られるエ・オト(兄・弟)制がヒメヒコ制の先駆的制度であったとする研究者もいる。神武天皇紀には奈良県宇陀地方兄猾(兄宇迦斯)と弟猾(弟宇迦斯)、奈良県磯城地方に兄磯城弟磯城およ兄倉下・弟倉下というようにエオト(兄弟)による統治制が伝えられており、ヒメヒコ制を支持する者たちは、弟猾ならびに弟磯城は祭祀的女性首長を意味し、それぞれ菟田県主と磯城県主になり、エウカシならびにエシキは軍事的男性首長を意味するという解釈を試み、美濃国では兄遠子と弟遠子、九州では兄夷守と弟夷守、兄熊と弟熊の伝承もヒメヒコ制と同一視出来ると主張している。

しかし、弟猾や弟磯城は男性と見られているし、兄多毛比命(武蔵国造)と弟武彦命(新治国造)や、兄武彦命(洲羽国造)と弟武彦命(木蘇国造)のように、「武」を冠する男弟も存在する。また男兄弟によるエオト制を異性ペアのヒメヒコ制の先駆的制度であると断言するのは強引であるという意見が多い。傍証として、景行天皇紀においては行幸先の美濃国の妹遠子・弟姫を妃にしようと泳宮に滞在しており、拒まれたため姉の姉遠子・八坂入媛命を妃としたとあり、エオトは姉妹にも適用され、エオト制=ヒメヒコ制とはできないという指摘がある。

兄・弟という語頭名称の他に、「ネ・ベ」「オ・メ」「キ・ミ」という語尾が男女の共通名に付く場合は「ヒメヒコ制」のパターンと解釈することができる。代表的な例としてはイザナギイザナミの夫婦神である。他にも、尾張地方の「オツナネ」(尾綱根)と「オツナマワカトベ」(尾綱真若刀俾)、シリツキトベ(志里都岐刀邊、志理都紀斗賣)[7]とシリツキネ(志里都岐根、尻調根)[8]そしてイナダネ(伊那陀禰、建稲種命)とイナダヒメ(伊那陀、奇稲田姫命)の場合、トベが女性名詞であるため「ヒメヒコ制」の1パターンと捉えることが出来る。また、物部氏族の祖先として登場する、欝色謎命欝色雄命伊香色謎命伊香色雄命はヤマト政権以前の大和国山辺郡にも「ヒメヒコ制」に類似した1パターンが存在していたと言える[9]。くわえて、開化天皇の后であるイカガシコメは大臣であるイカガシコオと共に石上神宮に仕えたと伝えられている[10]

邪馬台国におけるヒメヒコ制

魏志倭人伝における邪馬台国では女性のヒミコ(卑弥呼)が王に共立されて呪術的(祭祀的)支配を行い、男弟が卑弥呼を補佐して政治を執行していた[11]。また、邪馬台国に属する対馬国壱岐国では大官にヒコ(卑狗)、副官にヒナモリ(卑奴母離)という主副のペア制による統治の記録がある。

卑弥呼の行った「鬼道」とはシャーマニズムのことであろうと推測されており[6]、未開社会においては王がシャーマンの役割を兼務していた可能性もあるされるが[12]身分制が確立してくるとシャーマンと祭司は分化し、祭司は上層に、シャーマンは下層になることが多い[13]。また部族社会では祭司の家系は部族の創始者、すなわち世界=社会の創造者に由来し、祭司=王であることも多いという[14]

琉球研究の泰斗・鳥越憲三郎氏は卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を琉球国聞耳大君琉球国王のような祭政二重主権の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという[15]。 これが古代社会に広くみられるヒメ・ヒコ制の男女二重主権であるとされる[6]

また、姉弟であることから「エオト制」であるとの指摘もされている。ヒコ・ヒナモリは前述の兄夷守と弟夷守の例があるように「エオト制」である可能性が高い。また呪術(祭祀)的首長を意味する「ミミ(彌彌)」は投馬国の「タマ(多模)」は不弥国それぞれの大官であり、副官はそれぞれヒナモリとミミナリ(彌彌那利)であり、これをヒメヒコ制だと唱えることも不可能ではないが、やはり性別不明である以上は一般的なペア制と捉えるべきである。しかしながら、こういった邪馬台国にペア統治体制が数多く見られることから、ヒメヒコ制の起源を卑弥呼と男弟のペア統治に求めようとする研究者は少なくはない。

考古学者の寺沢薫氏も弥生時代の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司祭主)だったのではないかと述べている[16]


  1. ^ ヒメヒコ制の概念は高群逸枝によって1938年に初めて唱えられた。高群は次のように言う「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する姫の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照 倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)
  2. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前記甲寅年条
  3. ^ 「日本書紀」景行天皇の条に阿蘇都媛と阿蘇都彦が見られる。「阿蘇十二社祭神」には新比咩と新彦、若比咩と若彦、比咩御子と彦御子と3対のヒメヒコが見られる。この地方にヒメヒコ制が何代か続いた事を推測させる。
  4. ^ 「伊賀国風土記逸文」には伊賀国の名前は伊賀津姫に由来する事が述べられている。崇神天皇の皇女イガヒメは、イガツヒメとの関係が指摘されている。『先代旧事記』「天孫本紀」には、大伊賀津姫(吾娥津媛)は大伊賀津彦命の娘であることが伝えられている。『先代旧事記』「国造本紀」には伊賀国造に任ぜられた垂仁天皇の皇子竟知別命の曾孫イガツワケ(武伊賀津別命)が伝えられている。
  5. ^ 『播磨国風土記』には地方のヒメヒコ神として、餝磨郡伊勢野にイセツヒメとイセツヒコ、アマタラシヒコとアマタラシヒメ、餝磨郡英賀里にアガヒメとアガヒコ(英賀神社祭神)、印南郡含芸里にキビヒメとキビヒコ、讃容郡雲濃里にタマアシヒメとタマアシヒコ、揖保郡出水里にイワタツヒとトイワタツヒメ(祝田神社祭神)が見られる。
  6. ^ a b c 大津透 2017, p. 47.
  7. ^ 志理都紀斗賣 建伊那陀宿禰の娘(記)建稻種命は、邇波縣君(にわ)祖、十三世孫、尻綱根、妹の尻綱眞若刀婢(旧事)
  8. ^ 尻調根(姓氏)を神社由緒等はシヅキネと読ませているが、シリツキネ(伝)が自然また海部氏系図ではシリツキトベ(志里都岐刀邊)がシリツキネ(志里都岐根)と親族関係で書かれている。
  9. ^ 高群逸枝『母系制の研究』286ページ
  10. ^ 『先代旧事本紀 天孫本紀』「物部連祖伊香色雄 此の命(中略)磯城瑞カキ宮御宇天皇(崇神)の御代、大臣に詔 して、 神物を班と為して、天社国社を定め、物部八十手が作れる祭神之物を以て、 八十万の 群神を祭りし時、建布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に遷し、則ち天祖が 饒速日尊に授けたまいて、天より受け来たる天璽瑞宝と、同じく共に蔵め斎り、号 して石上大神と曰し、以て国家の為、また氏上と為て祀りて鎮と為せり。則ち、皇后、 大臣、神宮に斎き奉れり。」
  11. ^ 「卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國」
  12. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 122.
  13. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 132‐133.
  14. ^ 佐々木宏幹 1992, p. 130.
  15. ^ 「倭人・倭国伝全釈」 角川ソフィア文庫 令和2年7月25日 270‐271頁
  16. ^ 「卑弥呼とヤマト王権」 中央公論新書 2023‐3‐10 272頁
  17. ^ なぜ最盛期でなく終焉期の伝承が多く見られるか。高群は「その時代に至って記録法が漸く整備を見たため、期せずして其の種の文献も多分に残されることとなった」と述べている(高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、366ページ)
  18. ^ (高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、367ページ)
  19. ^ ネコやタケルはヒコと同じく元々は軍事カリスマのある人物に付けられる名称である。ただし姓氏制度が始まってからは個人の軍事カリスマとは無関係に世襲されたり、名づけられるようになった。
  20. ^ 「倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」
  21. ^ 他に複数の地域に祭られている同一のヒメヒコにシナツヒメ・ヒコ(志那都比賣・比古、級長津姫・彦)がいる。龍田坐天御柱国御柱神社(大和国)、息神社(遠江国)、川匂神社(相模国)、鹿島御子神社(陸奥国)、小物忌神社(出羽国)および科長神社(河内国)などである。この神は神話に登場する神なので古代のヒメヒコ制とは無関係に、神話の影響で祭神となった可能性がある。
  22. ^ 播磨国風土記』には、日岡には大御津歯命の子の伊波都比古命という神がいるとある。『延喜式』神名帳は「日岡坐天伊佐佐比古神社」と記しているが、伊佐佐比古は伊波都比古の誤記の可能性が高い。
  23. ^ 続日本紀:承和10・9・19





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヒメヒコ制」の関連用語

ヒメヒコ制のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヒメヒコ制のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヒメヒコ制 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS