イスパニョーラ島 歴史

イスパニョーラ島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 04:34 UTC 版)

歴史

コロンブス到来前のイスパニョーラ島の勢力分布。カシーケ(首長、cacique)に率いられたタイノ人の5つの部族集団がイスパニョーラ島を統治していた
15世紀のスペイン人による地図

クリストファー・コロンブス1492年12月5日、本島に到達してラ・ナビダッド(La Navidad)を建設。1493年の2回目の航海では南東部のオサマ川スペイン語版英語版河口に新世界最初のスペイン植民地の居住地区であるラ・イサベラを建設した。この植民地の中心は、1496年に新世界最初の西洋人による町・ヌエバ・イサベラ(Nueva Isabela)となったが、まもなくハリケーンで破壊されたため川の対岸にサントドミンゴの町を築いた。

アラワク系の先住民タイノ人カシーケと呼ばれる首長に率いられて暮らしていた。この島をキスケヤ(Quisqueya、または Kiskeya、「すべての大地の母」の意味と推定されている)と呼んでいた。この名前はハイチ共和国とドミニカ共和国両方の地名に残っており、またドミニカ共和国の国歌は『キスケヤの勇敢な息子たち』(Quisqueyanos valientes)と呼ばれている。その他の先住民による島の呼び名にはアイティ(Ayiti、「高い山の土地」)やボヒオ(Bohio)などがあったが、アイティは、1804年のハイチ共和国独立の際に国名として利用された。ハイチは島中央の山脈の姿に由来し、もともと島全体の呼び名で西側のハイチ共和国側に限定されたものではなく、ドミニカ共和国のある東側もかつてはスペイン領ハイチと呼ばれていた。スペイン人はこの島を聖ドミニコにちなみサント・ドミンゴ島(Santo Domingo)と名づけた。ドミニカ共和国の名や島の西側に存在したフランス植民地(現在のハイチ共和国)サン=ドマング(Saint-Domingue)の名はこれに由来する。

フランスとスペインの支配

フランス領サンドマングのポルトープランスの邸宅
スペイン領サントドミンゴ市の地図

スペイン人による鉱山労働などでタイノ人らは酷使され、持ち込まれた疫病被害もあり25万と推定されるコロンブス以前の人口は激減し絶滅へと向かった。代わってアフリカからの黒人奴隷が大量に送りこまれた。当初のスペインの全島支配に対し、手薄な西側にフランス人などの海賊が侵入し、北西沖合の島トルトゥーガ島は海賊の巣窟と化した。しばしば貿易船や入植地を襲う海賊の脅威に、1606年にはスペイン人は入植者に対しサントドミンゴ周辺に集まって住むよう命令、空白地となった島の残りにはフランスやオランダ、イギリスなどの勢力が殺到した。1660年代以降フランスは島西部の領有を主張し入植地を築き、1697年ライスワイク条約で正式に島の西側3分の1はフランス領となった。

フランス領サン=ドマングは、北部カプ=フランセ(現カパイシャン)を中心に砂糖コーヒープランテーションが建設され、フランス植民地の中でも最も利益を生み出す植民地となったが、アフリカから連行され酷使される黒人奴隷の間には不満が高まっていた。

ハイチ革命とドミニカ独立戦争

ハイチ革命

フランス革命に乗じて黒人や混血(ムラート)勢力が決起しハイチ革命が起こり、1804年には西半球初の黒人国家ハイチ帝国 (1804年-1806年)を誕生させ、プランテーションを解体させ小作農を多数生み出した。一方で独立後のハイチはフランスにより、放棄したプランテーションなどの賠償金を払うよう強要され財政や経済は混乱してしまった。

スペイン領サントドミンゴスペイン語版英語版は、フランス革命戦争でのスペインとフランスの講和(バーゼルの和約)により1795年にフランスに割譲され、以後サン=ドマングのハイチ革命の荒波をかぶり、ハイチ黒人軍侵入による奴隷制度撤廃とナポレオン軍侵入による奴隷復活、ハイチ共和国軍に対するフランス軍の駐留継続が続き、ナポレオン戦争後の1814年にスペイン支配が復活するまでにすっかり荒廃してしまった。もともとサントドミンゴを放置していたスペイン人に対し、中南米で独立戦争が荒れ狂う1821年、副総督ホセ・ヌニェス・デ・カセレススペイン語版英語版(José Núñez de Cáceres)はスパニッシュ・ハイチスペイン語版英語版独立を宣言しシモン・ボリバル大コロンビアへの併合を提案した。しかしハイチ共和国大統領ジャン・ピエール・ボワイエにより侵攻され人口の少ないスパニッシュ・ハイチは敗北し、全島がハイチ領となってしまう(ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領スペイン語版英語版)。

ハイチ支配下で要職はハイチ人が占め、対仏賠償を払うための税金がサントドミンゴ側に課せられるなどの屈辱的な状況下で、スペイン人メスティーソたちは独立運動を模索した。1838年フアン・パブロ・ドゥアルテスペイン語版英語版(Juan Pablo Duarte)が秘密結社ラ・トリニタリアスペイン語版英語版(La Trinitaria)を結成し、1844年ドミニカ共和国独立を成し遂げた。この際のハイチに対する決戦の功績でマティアス・ラモン・メラスペイン語版英語版(Matías Ramón Mella)とフランシスコ・デル・ロザリオ・サンチェススペイン語版英語版(Francisco del Rosario Sánchez)はドゥアルテ同様英雄と称えられている。ラ・トリニタリアを支援した富裕な牧場主ペドロ・サンタナスペイン語版英語版が初代大統領となりアメリカ合衆国憲法にならった憲法を制定した。

ハイチ側では元黒人奴隷の将軍フォースタン=エリ・スールーク英語版が事態を収拾し、皇帝に即位した。これに対しハイチの侵攻を恐れるドミニカ共和国は1861年、保護を求めスペイン植民地に逆戻りするが再度の植民地支配に対して反発も強まった。ハイチは独立運動を金銭や拠点の面から支援し、1865年ドミニカ共和国は再独立した。ドミニカ共和国側はスペインという大きな悪よりハイチという小さな悪を選んだ形だったが、ハイチを恐れアメリカ保護領になる提案も出したが合衆国が拒否して失敗した。ドミニカ共和国側では再独立戦争に勝利した黒人軍人ウリセス・ウロ(Ulises Heureaux)がドミニカの大統領として君臨した。19世紀末にはハイチもドミニカも安定し、エリート層と農民層の対立は残しつつ、近代化へ向けた歩みを始める。

アメリカの介入

イスパニョーラ島では20世紀に森林伐採が進んだ。特に西側のハイチで乱伐が進行した。森林被覆率が40%のドミニカ共和国に対して、ハイチの森林被覆率は2%にまで低下しており、衛星画像でもやや緑で覆われたドミニカ側とはげ山のハイチ側がはっきりとわかる。

1906年ドミニカ共和国は、ウロ大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国はアメリカ軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。

両国ではアメリカ軍への反発が高まり、アメリカも両国を維持する経済力や利益に限界があったため、財政を管理し保護国状態を続けたまま軍は撤退させた。ドミニカ共和国は1924年に、ハイチは1934年にアメリカ軍支配を脱し選挙が復活したが、ドミニカ共和国では1930年に陸軍参謀総長ラファエル・トルヒーヨが大統領に当選し以後30年にわたり国家を私物化する。トルヒーヨは1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し1日で17,000人から35,000人が殺された(パセリの虐殺)。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがなかった。

一方ハイチではエリート層を構成するムラートの政権が続いたが、多数派黒人の圧力が高まりクーデターや政争が続いた。1957年、黒人の庶民派フランソワ・デュバリエが大統領となったが、彼は独裁権力をふるうようになり1986年まで親子2代にわたる独裁政権がハイチを停滞させた。入れ替わるように、ドミニカ共和国ではトルヒーヨ政権が倒れた。反独裁の動きの中で、第2のキューバ革命勃発を恐れたアメリカはトルヒーヨを見放し、トルヒーヨは1961年に暗殺された。1965年ドミニカ内戦英語版ドミニカ侵攻)後も軍事政権は続くがホアキン・バラゲール大統領が強権的ながらも政治と経済を安定させ、ドミニカ経済はアメリカの支援もあり回復していった。

20世紀末以降、ドミニカ共和国はきわめて安定した政治のもと経済発展を続けているが、一方のハイチはデュバリエ政権崩壊後も不安定な政情が続き、世界最貧国の一つとなっている。


  1. ^ Haiti & The Dominican Republic IMF population estimates.
  2. ^ 「プレート衝突で大地震がくる」…米国学者の警告が現実に 中央日報
  3. ^ USGS Centroid Moment Tensor Solution アメリカ地質調査所
  4. ^ 遠地実体波によるモーメント解 アメリカ地質調査所
  5. ^ NGY地震学ノート No.24 名古屋大学地震火山・防災研究センター
  6. ^ ハイチの地震、専門家が事前に警告 2010年1月14日付 読売新聞
  7. ^ 2010年1月13日 ハイチの地震 東京大学地震研究所 2010年1月14日閲覧






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イスパニョーラ島」の関連用語

イスパニョーラ島のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イスパニョーラ島のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイスパニョーラ島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS