アメリカ合衆国による沖縄統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 08:07 UTC 版)
文化
文化政策
民政府は沖縄住民に対する文化政策を実施してきた。米軍は住民を独自の文化に誇りを持つ少数民族で、琉球処分後本土から差別・偏見を受けたと見られた。伝統文化を保護・継承させ、文化に対する自信と誇りを取戻し、独自のアイデンティティーを構築させる目的で始まった。またその政策により、良好な琉米関係を築けば本土復帰運動も収まるだろうと考えた[52]。
- 文化財保護
- アメリカ軍はハーグ陸戦条約に基づき、沖縄戦の戦闘中に文化財を破壊してはならないと命令され、海軍の軍政報告書によれば墓への破壊行為は最小限に留めさせ、破壊された墓地の復元の責任を取らせた。当時の軍政府は沖縄の伝統文化を日本復帰まで一貫して奨励した。軍政府の近くに戦争により散逸した文化財を収集し博物館を造り、1958年(昭和33年)に首里城の守礼門の復元を行った。当時のキャラウェイ高等弁務官は、琉球国時代に作成された古文書の収集に関心を寄せていた。1961年(昭和36年)、日系アメリカ人でアメリカ合衆国下院議員であったダニエル・イノウエは議会に「琉球の文化財保護・復元に関する法案」を提出したが、否決された[53][54]。
- 文化会館の設立
- アメリカの政策と文化を住民に理解してもらう為に、1947年(昭和22年)に琉米文化会館を開設した。沖縄本島には現在の県庁所在地の那覇市を含む3ヶ所と、宮古島、石垣島、奄美大島に設置され、後に4ヶ所に分館の琉米親善センターも開館した。鹿児島県に属していた奄美大島の文化会館は1954年(昭和29年)の本土復帰に伴い閉館した。当初は図書館と民政府からの情報頒布であったが、多目的ホールや会議室の設置、市民教室、展示会などが開催され、非常に充実していた[55]。
- 反共政策
- 日本復帰を支持する共産主義勢力を恐れた民政府は、出版物の検閲や警察局長の許可なしでは街頭集会が開かれないなど言論、行動の自由を制限した[56]。特に瀬長亀次郎は那覇市長の追放、人民党事件による投獄など厳しい弾圧を受けてきた[57]。
祝祭日・紀年法
紀年法は本土とは異なり、西暦が採用された。米国民政府の布告・布令はもちろん、琉球政府の法令の法令番号の日付も西暦であった。公文書も原則的に西暦で表記された。例外は戸籍に関する文書であった。ただ、民間においては西暦のほかに、当時の本土の元号である「昭和」も慣例的に使用されていた。
また、標準時は日本本土と同じくGMT+9時間となっていた。なお、低緯度であることから米国本土のような夏時間は実施されなかった。
祝祭日は「住民の祝祭日」として制定され、ほぼ、日本本土の「国民の祝日」に準じたものとなっていた。下表は沖縄返還時点のもの。
日付 | 名称 | 備考 |
---|---|---|
1月1日 | 元日 | 本土の元日と同一日 |
1月15日 | 成人の日 | 本土の成人の日(当時)と同一日 |
春分日 | 春分の日 | 本土の春分の日と同一日 |
4月1日 | 琉球政府創立記念日 | |
4月29日 | 天皇誕生日 | 本土の天皇誕生日(当時)と同一日 |
5月3日 | 憲法記念日 | 本土の憲法記念日と同一日 |
5月5日 | こどもの日 | 本土のこどもの日と同一日 |
5月第2日曜日 | 母の日 | |
6月23日 | 慰霊の日 | 沖縄戦終結の日 |
旧暦7月15日 | お盆の日 | |
9月15日 | としよりの日 | 本土の敬老の日(当時)と同一日 |
秋分日 | 秋分の日 | 本土の秋分の日と同一日 |
10月の第2土曜日 | 体育の日 | |
11月3日 | 文化の日 | 本土の文化の日と同一日 |
11月23日 | 勤労感謝の日 | 本土の勤労感謝の日と同一日 |
注釈
出典
- ^ 琉球政府章典 - 東京大学東洋文化研究所。第二条に規定されている。
- ^ a b 総務省統計局 統計データ 第1章 国土・気象 - 2章 統計対象・表章項目 国土の変遷
- ^ 沖縄県企画部統計課 第1表 沖縄県の人口、人口増減、面積及び人口密度(大正9年 - 平成17年)
- ^ a b c “国勢調査の概要(PDF)”. 総務省統計局 2011年9月3日閲覧。
- ^ 宮城(1992年)p.6
- ^ “アメリカ世(あめりかゆー)”. 琉球新報 沖縄コンパクト事典. (2003年3月1日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “トカラ列島の日本復帰”. 鹿児島県 2011年9月2日閲覧。
- ^ “奄美群島の日本復帰”. 鹿児島県 2011年9月2日閲覧。
- ^ 金城(2005年)p.236
- ^ 安里(2004年)p.302
- ^ 宮里(1966年)p.8 - 9
- ^ 9月20日 女性に初の参政権が認められる(1945年) - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館
- ^ 宮里(1966年)p.8
- ^ 宮里(1966年)p.14
- ^ 金城(2005年)p.243 - 245
- ^ 金城(2005年)p.245
- ^ 森田(1966年)p.48 - 49
- ^ 金城(2005年)p.239 - 240、付録p.14
- ^ 安里(2004年)p.305,306、付録p.22
- ^ 中野育夫「米国統治下沖縄の軍政から民政への移行」専修大学商学論集 92 - 2011/01号、p.70
- ^ “日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)”. 中野文庫 2011年8月31日閲覧。
- ^ 平和条約以後の沖縄と日本外交
- ^ “琉球政府設立に関する布告”. 東京大学東洋文化研究所 2011年8月31日閲覧。
- ^ “琉球列島米国民政府(USCAR)設立”. 沖縄県公文書館. (2008年12月15日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ 金城(2005年)p.245 - 249、付録p.14
- ^ 安里(2004年)p.302,303、付録p.22
- ^ “伊佐浜土地闘争”. 沖縄県公文書館. (2009年3月11日) 2011年8月31日閲覧。
- ^ “伊江島土地闘争”. 沖縄コンパクト事典 琉球新報. (2003年3月1日) 2011年8月31日閲覧。
- ^ a b 安里(2004年)p.307
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- ^ “過去の戦後処理事例と旧軍飛行場用地問題(PDF)”. 沖縄県 知事公室 基地対策課 2011年8月31日閲覧。
- ^ a b c 金城(2005年)p.252
- ^ “プライス勧告発表、島ぐるみ闘争へ”. 沖縄県公文書館 2011年8月31日閲覧。
- ^ “プライス勧告と島ぐるみ闘争”. 沖縄県立総合教育センター 2011年8月31日閲覧。
- ^ 金城(2005年)p.253
- ^ 金城(2005年)p.255
- ^ 安里(2004年)p.308
- ^ a b 金城(2005年)p.258
- ^ 金城(2005年)p.259, 260
- ^ 金城(2005年)p.264,265
- ^ 安里(2004年)p.310
- ^ “矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年”. 琉球新報. (2000年12月20日) 2011年9月1日閲覧。
- ^ 金城(2005年)p.262
- ^ 安里(2004年)p.309 - 310
- ^ “琉球政府の時代 屋良朝苗”. 沖縄県公文書館 2011年9月1日閲覧。
- ^ “佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明”. 東京大学東洋文化研究所 2011年9月1日閲覧。
- ^ “基地問題の取り組み”. 沖縄県 知事公室 基地対策課 2011年9月1日閲覧。
- ^ 宮城(1992年)p.12 - 14
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- ^ 『角川日本地名大辞典 47 沖縄県』(1986年7月8日、角川書店発行)89頁。
- ^ 宮城(1992年)p.36
- ^ 宮城(1992年)p.50 - 52
- ^ “首里城 正殿への道”. 国営沖縄記念公園 首里城公園 2011年9月7日閲覧。
- ^ 宮城(1992年)p.32 - 34
- ^ 宮城(1992年)p.34 - 36
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- ^ 宮里(1966年)p.72 - 74,115 - 118
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