お猿のかごや
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 20:22 UTC 版)
来歴
作詞者と作曲者
作詞者の山上は1917年2月8日に、長野県埴科郡松代町(現長野市松代町)の書画骨董業を営む父、八太郎、母みきの二人目の子として生まれた[6]。山上は松代商業高校(現在の長野県松代高等学校)を卒業[7]後、詩人として身を立てたいと思い、17歳で上京した[8]。作曲者の海沼は、1909年1月31日に、同じ松代町の老舗の菓子屋である「藤屋」の長男として生まれている[6][8]。山上と海沼の実家は歩いて十分以内の距離だった[9]。海沼は独学でバイオリンを弾くような少年であった[10]。1931年、23歳のとき、すでに結婚し子供もいたが、東京音楽学校に入学するため上京している[10][8]。山上と海沼の出会いは1937年5月27日、山上が同郷の先輩作曲家草川信を訪ねたときに海沼を紹介された[11]。それ以来二人は、親友として互いに励ましあう仲になり[8]、山上は海沼を兄と慕うほどであったという[1]。二人は共にレコードの売込みにも出かけたこともある[12]。
歌の誕生
1938年、山上は上京から4年半過ぎて、すでにレコード2曲は発表していた[13]ものの、詩人としては未だ芽が出ないままであった[8]。その年の9月に、山上が居候していた大森の義兄宅近所にある空き地を散歩しているとき、急に曲想が浮かんできたという[8]。その時のことを山上は次のように記している。
「お猿のかごや」は、昭和十三年の九月、東京大森の義兄宅で作詞した。義兄の好意でころがり込んだ居候時代である。その日の東京の空は、美しいオレンジ色の夕焼けであった。
すぐ裏に、子どもたちが勝手に出入して遊ぶことのできた、近くのラジオ製作工場所有の空き地があったが、そこにげた履きで出た私は草の中をそぞろ歩きながら、夕焼け雲のかなたのふるさとを思っていた。
山国に生まれ育った私は、何よりも山が恋しかった。郷愁は常に、山を思うことから始まった。九月---、ふるさとの山々は、秋なのである。
帰りたい。あの山に登りたい。この足で、やわらかい落ち葉を踏みたい。……私の脳裏に、幼い頃から親しんだ山道が、目の前の夕焼けの色を映して、なつかしく浮かびあがった。
その山道を、私が歩いてゆく。……いや、いつの間にか、作曲家の海沼実先生と二人なのである。
不意に、何のつながりもなく、「小田原提灯」が、パサリと揺れた。駕籠が走った。
そのひらめきにハッとして、私は現実にもどった。
あたりは暗くなりかけていた。私は慌しく踵を返した。
与えられていた三畳の部屋に入るやいなや、原稿用紙をひろげ、ペンを握った。
— 山上武夫『「お猿のかごや」に寄せて』(昭和五十二年三月十五日)[12]
山上はここで浮かんだ曲想を元に三番目までの詞を一気に書き上げた。ただし四番目はなかなか浮かばず、苦吟の末、夜更けまでかかってようやく四番目を仕上げた[12]。山上は詩ができるとすぐに海沼の下に持ち込み作曲を依頼した[14]。作曲の際に海沼は山上の歌詞を一部変更した(後述)。海沼が『お猿のかごや』に曲を付けた1938年9月頃は、海沼がようやく師の草川から自分の名前で曲を公表することの許可を得た頃であった。それ以前から山上は作曲の練習用として海沼から詞を求められ、密かに作品を提供していた。『お猿のかごや』もその一つで、生原稿を直接渡していた[15]。
レコード化と大ヒット
「オ猿ノカゴヤ[注釈 2]」 | |
---|---|
尾村まさ子、大内至子、山崎百代、小林茂子[16]の楽曲 | |
リリース | 1939年12月 |
規格 | SP盤 |
ジャンル | 童謡 |
レーベル | ビクター |
作詞者 | 山上武夫 |
作曲者 | 海沼實 |
その後、海沼は『お猿のかごや』の売り込みにいくつかのレコード会社を奔走した[17]。当初ビクターに持ち込んだがなしのつぶてだったという[18]。その間に歌詞の方は1938年12月、山上が主催していた自作発表童謡誌『ゆずの木』の第4号に発表された[19]。ようやく一年もたってレコーディングが行われ、1939年12月にビクターから正月新譜として尾村まさこの歌で発売された[19][1]。レコード番号は、ビクターレコードZ-5036。当初はB面曲としての扱いであり、A面は『動物の大行進』であった[20]。歌詞カードも『動物の大行進』はカラーであるのに対し、本歌は単色刷りであった[18]。ところがレコードが発売されると、レコード会社には「『お猿のかごや』のレコードが欲しい」という注文が殺到し、1940年に改めてA面曲として再発売された[21]。なお、当時の新人作家の作品は買取りであり、印税はなく『お猿のかごや』も同様であった[22]。レコードは大ヒットしたものの、強化されてゆく戦時体制の中でやがて消えていった[23]。
戦後の復活と広がり
戦前のレコードも大ヒットしたものの、本歌が全国的に歌われるようになったのは戦後のことである[12]、終戦後、1946年に音羽ゆりかご会の大道真弓が、続いて川田孝子が1948年にレコードを出し、それぞれ大ヒットしている[24]。音羽ゆりかご会がラジオで歌い[4]、終戦時の暗い世相の灯火として津々浦々まで全国的に広まった[2]。また、戦後は、オリジナルの童謡としてだけでなく、いろいろなスタイルに編曲されたバリエーションも数多く発表されている。トリオ・ロス・パンチョスによるもの[4][注釈 3]、ジャズ化したもの、中村メイコによる声の使い分けで物語化したものなどがある[12]。最盛期には70種のレコードに入っていたという[18]。テレビドラマなどでも数多く使われ[12]、高度成長期の昭和40年代まで広範に親しまれていた歌であるという[25]。現天皇も1963年2月23日の3歳の誕生日に『お猿のかごや』を歌ったという[26]。2008年に、介護福祉士やヘルパーなどの養成講座の学生、老人ホームやデイサービスセンターの職員、およびその家族など合計1152人に、高齢者に好まれているとされる歌130曲について、知っているかどうかアンケートをとったところ、本曲の認知度は82.9%であった[27]。2012年に、神戸市のソプラノ歌手が、東日本大震災の被災地に元気の出る歌を送ろう、と提案し、インターネットで呼びかけた賛同者に「エッサ エッサ エッサホイサッサ」の掛け声を送ってもらい、本人の歌声にそれを取り込んで合唱に聞こえるように編集したDVDを販売した。提案者の歌手は阪神・淡路大震災で被災後、2004年から聴衆と共に歌うコンサートを開いて来たが、一番盛り上がる歌が『お猿のかごや』だったと言う[28]。
注釈
- ^ レコード童謡についてはレコード童謡節を参照のこと。
- ^ 初出のレコードでの表記は「オ猿ノカゴヤ」であった[16]。
- ^ 歌詞はスペイン語で、曲名は「Nos Vamos A Pasear」。1962年に日本限定で発売されたLP『パンチョス日本を歌う -日本バンザイ-』(日本コロムビア、規格品番:YS-229)にも収録された。
- ^ その他『村まつり』、『証城寺の狸ばやし』、『汽車ポッポ』、『めんこい仔馬』、『夢のおそり』など比較的陽気な歌の人気が高かった[37]。
- ^ サトウはさらに「私はこれを、子供のギッチョンチョンであり、オペレッツのパアであり、ストトンであり、ドンドンぶしであり、シカモソジャナイカネエアナタチョイとチョイとぶしだと思うのである」[44]と続けている
- ^ たとえば、童謡に関する薀蓄本でも、本歌を「箱根越えの歌である」と断じているものがある[49]。また、「箱根の山道を二匹の猿が登っていく光景が目に浮かぶ」とする評もある[50]。また、「お猿のかごやはどこの道を急いでいるのか。キーワードは「小田原提灯」ではないか。そう。箱根の坂道である。」という出だしで箱根旧街道の案内をしている書籍[51]もある。
- ^ 他に「小田原のうた」として紹介されているのは、『二宮金次郎』『みかんの花咲く丘』(国府津から熱海にかけてのみかん山がモデルになったとされる)、『あわて床屋』(モデルが小田原市内の床屋とされる)、『めだかの学校』(市内の荻窪用水がモデルとされる)の4曲である[53]。
出典
- ^ a b c 竹内 (2009), pp. 152–153
- ^ a b c 高橋 (1988)
- ^ a b 渋谷 (1980), p. 88
- ^ a b c d 上 (2005), pp. 68–69
- ^ a b 佐々木 (2009)
- ^ a b 神津 (2004), p. 49
- ^ 神津 (2004), p. 50
- ^ a b c d e f 読売新聞文化部 (2003), pp. 22–25
- ^ a b c d “うた人抄 第8部 童謡編 13 お猿のかごや 二人三脚で夢を”. 読売新聞 神奈川 (読売新聞社): p. 2. (1995年11月23日) - ヨミダス歴史館にて2016年09月23日閲覧。
- ^ a b 神津 (2004), p. 103
- ^ 神津 (2004), pp. 87–99
- ^ a b c d e f g h i j k 山上 (1977)
- ^ 神津 (2004), p. 125
- ^ 神津 (2004), p. 138
- ^ 山上武夫 (1985年12月21日). “来し方の記 11 大ヒット「お猿のかごや」”. 信濃毎日新聞 夕刊 (信濃毎日新聞社): p. 5
- ^ a b お猿のかごや、池田小百合 なっとく童謡・唱歌 - 2019年3月10日閲覧。
- ^ 神津 (2004), p. 141
- ^ a b c 毎日新聞学芸部 (1993), pp. 156–158
- ^ a b c 郡 (2004), pp. 102–103
- ^ a b c d e 池田 (2003), pp. 44–49
- ^ a b c d 海沼 (2003), pp. 172–175
- ^ 山上 (1993), p. 176
- ^ “お猿のかごや 天下の難所、提灯揺れて(歩く 童謡の旅:3)”. 朝日新聞 夕刊 (朝日新聞社): p. 14. (2003年1月23日) - 聞蔵Ⅱビジュアルにて2017年02月23日閲覧。
- ^ 「日本のうたふるさとのうた」全国実行委員会 (1991), p. 184
- ^ a b 櫻井 (2007), p. vii
- ^ 「かわいい おもちょい ナルちゃん言葉 浩宮さまの言葉はこんな風に変りました」『明星 増刊号』、集英社、1964年5月、140-141頁。
- ^ 渡辺嘉久「高齢者の歌はどれほど知られているか? : 歌に関するアンケート調査より」『帝塚山大学心理福祉学部紀要』第4巻、帝塚山大学、2008年、123-137頁、ISSN 1349-7774、NAID 110006687433、2022年8月23日閲覧。
- ^ “心合わせて:阪神大震災17年 元気運べ 童謡「お猿のかごや」500人参加CD・DVDを被災地へ”. 毎日新聞 大阪夕刊 (毎日新聞社): p. 10. (2012年1月4日) - G-Searchにて2017年01月06日閲覧。
- ^ 横山 (2011), pp. 102–104
- ^ a b 長野県商工会婦人部連合会 (1993), p. 96
- ^ 山上 (1993), p. 171
- ^ a b 神津 (2004), p. 138-139
- ^ a b c 見崎 (2002), pp. 264–268
- ^ a b 兎束 (1996)
- ^ a b c 小松、他 (2012)
- ^ a b 石田 (2003)
- ^ a b “「かあさんの歌」にアメリカ人女性が涙 音羽ゆりかご会コンサート”. 朝日新聞 夕刊 (朝日新聞社): p. 3. (1990年5月11日) - 聞蔵Ⅱビジュアルにて2017年02月23日閲覧。
- ^ a b c d 小島 (2004), pp. 221–222
- ^ a b c d 上 (2005), p. 428
- ^ 畑中 (2007), pp. 279–280
- ^ 井手口 (2016)
- ^ 服部 (2002), pp. 100–101
- ^ 井手口 (2018), pp. 92–93
- ^ a b サトウ・ハチロー (1953年12月11日). “童謡復興 美しい心のこもったウタに”. 朝日新聞 朝刊 東京版 (朝日新聞社): p. 5 - 聞蔵Ⅱビジュアルにて2018年07月20日閲覧。
- ^ “小田原提灯-小田原提灯の歴史と沿革”. 小田原市地場産業振興協議会. 2017年3月13日閲覧。
- ^ a b 池田 (2006), p. 55
- ^ 『小田原市史 通史編 近世』 (1999), p. 498
- ^ 小田原ちょうちん保存会 (1977), pp. 164–166
- ^ 合田道人『童謡の謎 3 --こんなに深い意味だった--』祥伝社、2002年、197-209頁。ISBN 4396611714。
- ^ 奥村 (1994), p. 14
- ^ 『なつかしの童謡唱歌』北辰堂出版〈感傷旅行 5〉、2010年、25頁。ISBN 4864270082。
- ^ 小田原ちょうちん保存会 (1977), p. 227
- ^ a b 小田原市教育委員会社会教育課 (1989), pp. 64–65
- ^ “「いまどきの電話」(7) 市政情報をいつでも 利用者伸び悩みだが”. 読売新聞 東京 朝刊 第二部 (読売新聞社): p. N5. (1990年10月14日) - ヨミダス歴史館にて閲覧。
- ^ a b “「お猿のかごや」で発車 JR小田原駅で 11月から駅メロ導入へ”. カナロコ. 神奈川新聞社 (2014年9月26日). 2017年3月13日閲覧。
- ^ a b “駅メロに「お猿のかごや」 JR小田原駅、11月1日から”. 読売新聞 朝刊 神奈川版 (読売新聞社): p. 31. (2014年9月26日) - ヨミダス歴史館にて2016年09月23日閲覧。
- ^ “第18回ODAWARAえっさホイおどり 開催要項” (PDF). えっさホイおどり公式ページ. ODAWARAえっさホイおどり実行委員会 (2016年5月27日). 2017年3月13日閲覧。
- ^ えっさホイおどり 開催要項, p. 7
- ^ 小田原市福祉健康部:健康づくり課 (2012年9月9日). “市民体操おだわら百彩”. 小田原市. 2017年3月13日閲覧。
- ^ “53° Zecchino d'Oro dal 16 al 20 Novembre 2010 LA SCIMMIA, LA VOLPE E LE SCARPE (Osaru no cagoya)” (イタリア語). Album dei ricordi. Zecchino d'Oro. 2017年3月18日閲覧。
- ^ 『全日本出版物総目録』国立国会図書館、1954年、376頁。NDLJP:2968764/197
- ^ “東京ミステリー 『ピヨピヨ』『カッコー』音響信号の変遷 街から消える『通りゃんせ』 利用者に惜しむ声も 次世代型に進化中”. 東京新聞 朝刊: p. 32. (2003年10月25日) - G-Searchにて2017年01月06日閲覧。
- ^ 渡辺純子 (2016年10月7日). “横断歩道、減る「通りゃんせ」 音響信号「ピヨピヨ」化”. 朝日新聞 (朝日新聞社) 2017年3月13日閲覧。
- ^ “「里山はいま」隣の動物たち(2) 住民一丸 サル防ぐ”. 読売新聞 朝刊 長野 (読売新聞社): p. 31. (2008年12月9日) - ヨミダス歴史館にて閲覧。
- ^ 川島令三『全国鉄道事情大研究 大阪南部・和歌山篇』草思社、1993年、153-155頁。ISBN 4-7942-0516-3。
- ^ a b “教委職員ら執筆 差別あおる恐れある歌 衆院委で追及”. 朝日新聞 朝刊 東京版 (朝日新聞社): p. 2. (1979年2月22日) - 聞蔵Ⅱビジュアルにて2016年08月19日閲覧。
- ^ “"差別ゲーム集"すでに絶版処分 文部省が事後処理報告”. 朝日新聞 朝刊 東京版: p. 2. (1979年3月2日) - 聞蔵Ⅱビジュアルにて2016年08月19日閲覧。
- お猿のかごやのページへのリンク