社稷の臣
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黄武2年(223年)4月、陸遜は丞相の孫邵や群臣一同と共に、孫権に帝位に即く事を進言した。 劉備が崩御し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、諸葛亮が丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった。孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにした。歴代で特別な待遇を受けた。 黄武5年(226年)春、孫権は民衆が疲弊し、耕地が放置されていることを憂い、その対策を求めた。陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった。冬、陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに、卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。孫権は役人に命令して法令をすべて書き写し、郎中に命じて陸遜と諸葛瑾の元にそれを送り、加除修正させた。 黄武7年(228年)、孫権が鄱陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を指揮する曹休を石亭に誘い出させた上で、孫権は陸遜を大都督に任命し、曹休追討の指揮を執る事を命じた。そのことについて、陸機は「仮公黃鉞,統御六師及中軍禁衛而摂行王事,主上執鞭,百司屈膝(陸遜が黃鉞を授けられ、禁軍や六師を率いて王の役割を代行する。主上は自ら鞭を執って引見した。百官は膝を屈した)」と絶賛した。また、諸将の中で仮節を与えられた者は何名かいたが、仮黄鉞を与えられたのは呉では陸遜だけである。 陸遜は、朱桓・全琮にそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊の指揮を任せ、自身は中央の軍の指揮を執り、3部隊に分かれて同時に進軍した。曹休は騙された事に気づいたが、自身が指揮する軍勢が大軍であった事からそのまま呉軍との交戦に及んだ。曹休は伏兵を配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦って大いに破り、追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。曹休は賈逵や朱霊・王淩の援護により脱出することができたが、敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去した。 黄龍元年(229年)、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍・右都護の官を授かった。その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。孫慮が闘鴨に熱中していたため、これを直々に注意し、また、射声校尉の孫松が孫権の寵愛をいいことに職務に怠慢であった事から、係の役人に罰を与えるなど、皇子・公子達の教育係も務めた。陸遜は刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉廙の議論を批判し、その議論にかぶれていた南陽の謝景を叱責した。また、孫権にも上奏し、厳罰化の傾向を戒め、一度罪を犯した者にもなるべく機会を与えるよう嘆願した。 孫権が東方の島の経略に心を奪われ、夷州や朱崖を占領するため衛温と諸葛直の軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かずに出兵させた。結局、陸遜の言葉通り、成果は得られなかった。また、遼東の公孫淵を服属させようとしたが、公孫淵は呉に反旗したため、遼東に親征しようとした。陸遜は、これにも反対した。孫権はこの進言は受け入れた。 嘉禾3年(234年)5月、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。陸遜は腹心の韓扁という人物を送り、孫権に戦況を報告させたが、韓扁は沔中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまった事に動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示した。陸遜と諸葛瑾はその作戦に従い、無事に撤退することができた。 陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させた。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た。結局、陸遜と諸葛瑾らは江夏郡の安陸・石陽城を攻め落とした 魏の江夏太守の逯式は軍勢を率いてしばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休(文聘の子)とは不仲であった。陸遜はその事を聞き、逯式の呉への投降要望に対して迎える準備ができたという偽手紙を送って逯式を動揺させた。その様を見て江夏の将兵は逯式への信頼を失い、しばらくして逯式は免職となった。 嘉禾6年(237年)正月、将軍胡綜が、奔喪には厳罰で対応すべきと提議した。丞相顧雍は大辟に従うよう上奏した。その後、呉県県令の孟宗が母の喪に奔赴し、葬後に自ら武昌に拘置されて聴刑した。陸遜はその素行を陳べて請い、孫権はかくして孟宗の罪を一等減じた。2月、前年から反乱を起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った。 同年、中郎将の周祗という人物は鄱陽において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜は鄱陽の住民の民心は不安定である事から賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した。結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され、豫章や廬陵の不服従民もこれに呼応し、周囲の諸県の治安も悪化した。陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表(陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8000人徴兵した。陸遜は陳表に偏将軍・都郷侯の官位爵位を授けた。長江沿岸の章阬の守備に当たった。 この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。
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