社稷自治論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:43 UTC 版)
権藤は村落共同体一般や、同時代の農村(民)をそのまま肯定したわけではなく、自治機能をもった公権力に抵抗しえた中世の郷村を理想としていた。社稷の「社」とは「地を神とする所以の道」であり、大地を意味し、「稷」とは五穀の長、粟を意味し、食物を意味する。あるいは社稷とは「社会」と同じ意味とも権藤はいう。 権藤は「土ありて而る後民人あり、民人ありて而る後君長あり」と政治の実体は君主でなく、民人(社稷)と述べる。さらに「万々世の後、理想が実現するに到れば、『天下ヲ公トナス』」と論じ、社稷が「天下」となり、社稷が体現した公共性こそが、国家の公共性にとって代わるべきとも論じた。 権藤は明治藩閥政府のプロシア式の国家主義を排撃し、「社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる」とし、明治以来の日本の国家主義は「一幅牛頭馬頭跋扈の地獄図」という弱肉強食や「欧州式の私有財産制度」を強引に採用した結果、一国の主力たるべき農民は「草野に枯死」かのごとき「租税製造機」として取り扱われているとして、すべての生民(人民)が和親修睦をもって相互扶助し、一人単独に満足するよりも、「一家より一伍一邑共に楽しむ」ことをより好むことで、「国民共存の大義」が展開されると論じた。 このような社稷自治論は農業立国論や浅薄な反都会・反商工観念とは異なり、権藤はそれらを批判していた。
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