K-1参戦とは? わかりやすく解説

K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:43 UTC 版)

ジェロム・レ・バンナ」の記事における「K-1参戦」の解説

1995年3月3日、「K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦」に出場それまでローキック禁止フルコンタクトルール主戦場としてきバンナにとってローキック有りルールはこの試合初めであったが、タイムエタイ戦士ノックウィー・デービーを3-0判定勝ちで下し決勝トーナメント進出決める。 5月4日、「K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦」では準々決勝佐竹雅昭左ストレートで3ラウンドKO勝ち。準決勝マイク・ベルナルド再戦し、ベルナルド膝蹴り浴びて鼻を骨折しながらもローキックを効かせて2ラウンドKO勝ち。決勝戦前年度K-1 GP王者ピーター・アーツ1ラウンドKO負け準優勝準決勝ベルナルド戦で負った鼻の骨折は現在でも完治しない古傷となっている。 その後の約1年間兵役つきながらK-1に参戦した12月9日、K-1 HERCULESにてアンディ・フグ対戦し判定負け1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」に出場。GP1回戦でミルコ・タイガー対戦し判定負け4月兵役終え6月1日パリ行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチカーチス・シュースター戦に判定勝利しISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座獲得10月18日、K-1 STAR WARS '96にて、アーネスト・ホースト対戦、2ラウンドKO勝利12月8日、K-1 HERCULES '96にて、サム・グレコ対戦パワー溢れハードパンチャー同士対戦とあって打ち合い期待されたが、引き分けとなった1997年2月1日フランスで行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチモーリス・スミス戦に判定勝利しISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座防衛成功4月29日のK-1 BRAVES '97ではレイ・セフォー対戦。前戦のスミス戦で膝の怪我負ったため、一度大会への欠場発表されたが、主催者側説得に応じて大会1週間前に急遽参戦決定した試合前のミット打ちでも蹴りを打たなかった様子記者からも目撃されており、怪我影響感じさせたが1ラウンドに右フック先制ダウンを奪うも、直後にセフォーのブーメランフックをもらいKO負け7月20日、K-1 DREAM '97にて、欠場したアーネスト・ホーストに代わって急遽ピーター・アーツ対戦し2ラウンドKO負け9月7日K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦出場。GP1回戦でリック・ルーファスに3ラウンドTKO勝利11月9日K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦GP準々決勝ではアーネスト・ホースト1ラウンド逆転KO負け

※この「K-1参戦」の解説は、「ジェロム・レ・バンナ」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「ジェロム・レ・バンナ」の記事については、「ジェロム・レ・バンナ」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 03:22 UTC 版)

ジョルジオ・ペトロシアン」の記事における「K-1参戦」の解説

2007年4月14日、イタリア・ミラノで行われたK-1 Italy Grand Prix 2007 in Milanにてアースラン・マゴメドフ判定勝ち。 2007年5月17日、K-1 Scandinavia GP 2007にてブアカーオ・ポー.プラムックドロー2007年11月24日Janus Fight Night 2007 72kg トーナメント決勝マルコ・ピケ勝利し優勝2008年11月29日IT'S SHOWTIMEウォーレン・スティーブルマンズ判定勝ち。 2009年1月31日イタリアトリノ行われたCANPIONATO MONDIAL THAI BOXE & K-1 RULESのWKNキックボクシングオリエンタル・インターコンチネンタルウェルター級王者決定戦出場。デビット・ジャバキア(グルジア)と対戦左ミドルキックで1RKO勝ちし、王座獲得した。元々、この試合は、ユーリー・バラシャ(ベラルーシ)の持つWKNムエタイ世界スーパーライト級(66.7kg)に挑戦する予定だったが、事前に変更された。 2009年3月14日地元イタリアで開催されIT'S SHOWTIMEアンディ・サワー対戦。下がりながらカウンター狙い戦いをし、被弾こそ少なかったものの、手数少ないと見られドロー、しかし延長Rにダウン気味のスリップ奪い判定勝ちを収めた

※この「K-1参戦」の解説は、「ジョルジオ・ペトロシアン」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「ジョルジオ・ペトロシアン」の記事については、「ジョルジオ・ペトロシアン」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/05 01:16 UTC 版)

オーレ・ローセン」の記事における「K-1参戦」の解説

2006年4月5日HERO'S須藤敗れてから1か月経たないうちにK-1に初参戦。K-1 WORLD MAX 2006世界一決定トーナメント開幕戦〜でドラゴ対戦する判定負け2007年4月4日K-1 WORLD MAX 2007世界最終選抜〜で魔裟斗対戦する判定負け2007年6月28日K-1 WORLD MAX 2007世界一決定トーナメント開幕戦〜にイアン・シャファー代打としてトーナメント参戦アンディ・サワーの右クロスカウンターで1RKO負け

※この「K-1参戦」の解説は、「オーレ・ローセン」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「オーレ・ローセン」の記事については、「オーレ・ローセン」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 17:53 UTC 版)

スタン・ザ・マン (キックボクサー)」の記事における「K-1参戦」の解説

9月4日日本行われた「K-1 ILLUSION 風林火山の章”」のUKF世界スーパーヘビー級WKAキックボクシング世界スーパーヘビー級ダブルタイトルマッチに出場佐竹雅昭日本)に5R判定3-0敗れるが、試合WKAルールではないという主張から、ベルト移動行われなかった。 1994年3月6日オーストラリア、メルボルンナショナルテニスセンターで行われたTAIPAN 1 BEST OF THE BEST」(オーストラリア版K-1)というトーナメント出場1回戦でボブ・シュクライバーを判定下すと、準決勝でディーノ・ホームズを1RKOで下し決勝戦でウラジミール・ゴルビンスキーを1RKOで下し優勝。この時の優勝賞金15ドル1995年3月3日行われたK-1 GRAND PRIX '95 開幕戦」の1回戦パトリック・スミスアメリカ合衆国)と対戦。1R開始直後飛び上がりながらの左フック最初ダウン奪った2Rに入ると、ボディへの右ストレート2度目ダウン奪い、さらに掠り気味の右ストレート3度目ダウン奪い直後に右ローキック4度目ダウン奪ってKO勝ちした。 3月25日コネチカット州レッドヤードで開催されキックボクシングアメリカイタリア対抗戦興行参戦スーパーファイトという位置づけ組まれWKAISKAWAKOの3団体世界王者決定戦でジェフ・ルーファス( アメリカ合衆国)と対戦し試合開始41秒でルーファス大振り右ストレートを喰らいKO負けした。 5月4日行われたK-1 GRAND PRIX '95 決勝戦」の準々決勝マイク・ベルナルド南アフリカ共和国)と対戦ダッキングしようと屈んで上体下げたところにベルナルドの右ミドルキック命中1996年3月30日に、タイ・パタヤで開催された「国王就任50周年記念興行」のWMTC世界スーパーヘビー級初代王者決定戦カークウッド・ウォーカーイギリス)と対戦5R判定勝利し初代王者になる。 9月1日に「K-1 REVENGE '96」のWMTC世界スーパーヘビー級王座防衛戦で、アンディ・フグスイス/挑戦者)と対戦2R目に左ハイキックダウン奪われると、直後左ストレートを受け、2R2:00KO負けし、王座から陥落した10月18日の「K-1 STAR WARS '96」で宮本正明日本)と対戦。1R中盤打ち合いの中、左フック最初ダウンを奪うが、ローキック宮本下腹部命中したため、インターバルがとられた。その後、1R終了直前に左フック2度目ダウン奪い3R終了直前宮本滅多打ちにし左アッパー3度目ダウンを奪うと、直後宮本セコンドタオル投入したため、スタンTKO勝ちが宣告された。 12月8日の「K-1 HERCULES '96」でマイク・ベルナルド南アフリカ共和国)と再戦し、5R判定ドローに終わる。本人によれば3R目に右ローキック放った際に脚を傷めたとのこと1997年4月29日の「K-1 BRAVES '97」でタケル日本)と対戦パンチラッシュ何度もタケル追い詰めるが、結局一度ダウン奪えなかった。試合自体は、スタン5R判定勝ちになった6月8日オーストラリアシドニー行われたNOW OR NEVER」のWKAキックボクシング世界スーパーヘビー級王座防衛戦出場。グラント・バーカー( オーストラリア)を2RTKOで下し防衛成功1997年7月バンダー・マーブ判定負け体重差は13キロだが、身長差は34センチもあった。 1999年5月14日アメリカで行われたIKFインターナショナル世界ヘビー級初代王者決定戦出場リック・ルーファスアメリカ合衆国)と対戦しKO負け

※この「K-1参戦」の解説は、「スタン・ザ・マン (キックボクサー)」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「スタン・ザ・マン (キックボクサー)」の記事については、「スタン・ザ・マン (キックボクサー)」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:12 UTC 版)

金子晃大」の記事における「K-1参戦」の解説

2019年3月10日、K-1初参となったK'FESTA.2ではスーパーファイト玖村修平対戦。2ラウンド中盤ダウンを奪うなど有利に試合進めていた。しかし同ラウンド後半バックハンドブロー被弾し逆にダウン奪われる続け様にパンチ連打浴びて2つ目のダウン喫した迎えた第3ラウンドダウンこそ奪えなかったが玖村攻め続けダウンの数こそ1つ少なかった判定ドロー(27-27,27-27,27-27)となり延長突入した延長死闘となった手数優ったこともあり3-0判定勝ちとなった2019年6月開催されたK-1スーパーバンダム級最強決定トーナメントには出場確実と言われていたが右の拳の怪我欠場となった2020年3月22日K'FESTA.3で1年対戦した玖村修平の弟の玖村将史と拳を交えるここまで9戦9勝と無敗貫いてきたが、0-2判定負け(29-30,30-30,28-30)を喫しプロ黒星となった2021年3月28日K'FESTA.4で再起戦として鬼山桃太郎対戦。3ラウンド目にKO勝ちを収めた2021年9月20日、K-1のリングにて4年8ヶ月ぶりに晃貴と再戦、元Krush王者同士対決となった1ラウンドフック飛び膝飛び膝、と立て続け3つのダウン奪い圧巻KO勝ちとなった

※この「K-1参戦」の解説は、「金子晃大」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「金子晃大」の記事については、「金子晃大」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 03:54 UTC 版)

ジョン・ウェイン・パー」の記事における「K-1参戦」の解説

2000年10月13日、K-1クイーンズランド大会で行われたISKAエタイ世界ミドル級タイトルマッチでK-1初参戦を果たした。スコッティ・バナンをボディへの膝蹴りで2RTKOで勝利し世界王座獲得。そしてK-1での初勝利となった2001年12月5日タイ行われたタイ国王生誕記念トーナメント』の準々決勝スリヤー・ソー・プルンチット3回判定勝利2002年11月26日、「K-1 WORLD MAX OCEANIA 2002」に参戦1回戦でアレックス・トゥイをKO下すと、続く準決勝シェイン・チャップマンニュージーランド)を3RKOで下し決勝進出決めた。しかし、決勝戦マイク・ザンビディスギリシャ)に3R判定負け準優勝終わった2003年4月土井広之KO勝ち。2003年7月後藤龍治TKO勝ち。 2004年3月4日タイ開かれたS1 WORLD CHAMPIONSHIP」に出場1回戦モハメッド・マゴメドフロシア)を3R3-0の判定下すと、続く準決勝でジャン・スカボロスキー(フランス)を右フック下し、3RKO勝ちで決勝戦舞台にあがった決勝戦では、ヌントラガーン・ポームアンウボン(タイ)を5R判定3-0下し優勝した2004年4月7日、「K-1 WORLD MAX 2004 開幕戦」にオセアニア地区代表として出場1回戦ドゥエイン・ラドウィックアメリカ)と対戦2Rダウン奪い3-0大差判定勝ちを収め決勝トーナメント進出決めた7月7日には、「K-1 WORLD MAX 2004 決勝戦」に出場。しかし、準々決勝ブアカーオ・ポー.プラムックタイ)に判定負けした。 2004年11月、オームシンに判定勝ち。2005年4月シェイン・チャップマンKO勝ち。2005年7月アルバート・クラウス判定負け2005年8月22日新日本キックボクシング協会主催興行TITANS 2nd」で武田幸三日本)とWKBA世界スーパーウェルター級王者決定戦争い3RフックKO勝ちし王座獲得した2005年12月10日オーストラリアXPLOSION SUPER FIGHT 12」でWBCムエタイ初代世界スーパーウェルター級王者決定戦出場するも、ヨードセングライ・フェアテックスタイ)に判定敗れ初代王座には就くことは出来なかった。 2006年3月12日イギリスロンドンWBCムエタイ認定する世界ミドル級王座初代王者決定戦出場するも、スティーブン・ウェークリング(イギリス / S1王者)に判定負けし、また王座獲得には致らなかった。 2006年4月、オームシンに判定負け2007年12月1日オーストラリアの「EVOLUTION 12」のWMC世界ミドル級王者決定戦(72.5kg契約)に出場コスモ・アレキサンドラブラジル)に5R判定3-0勝利し王者になる。もともとはヨードセングライ・フェアテックス世界戦を行う予定だったが、事前に変更された。 2008年1月20日後楽園ホール開催される新日本キックボクシング協会主催興行BRAVE HEARTS 7」にて、武田幸三相手にWKBA世界スーパーウェルター級王座初防衛戦が行われ、4RフックKO勝ち。

※この「K-1参戦」の解説は、「ジョン・ウェイン・パー」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「ジョン・ウェイン・パー」の記事については、「ジョン・ウェイン・パー」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:57 UTC 版)

バダ・ハリ」の記事における「K-1参戦」の解説

2005年6月12日IT'S SHOWTIME 8でステファン"ブリッツ"レコ対戦。1R中盤バックスピンキックボディ受けてダウンし1ラウンドKO負け喫した11月19日K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦でK-1デビュー果たし、第2リザーブファイトにおいてステファン"ブリッツ"レコ再戦前回自分KOされた右バックスピンキックを顎に直撃させて2ラウンド失神KO勝ちでリベンジ果たした試合後、「オランダに自分理想とするスタイルファイターはいない。オランダ人トップになる。誰でもやってやる」とコメントした2006年3月5日K-1 WORLD GP 2006 IN AUCKLANDOCEANIA GP出場試合前日記者会見では、1回戦対戦相手ピーター・グラハム挑発繰り返し会見後にも執拗に絡んだため喧嘩騒動発展した最後挑発したバダ・ハリが突然グラハム全力殴りかかったが、パンチかわされ逆にグラハムタックル受けて地面倒された。試合はやや優勢に戦っていたものの、3ラウンドグラハムの胴回し回転蹴りローリングサンダー)を受け、失神したうえアゴを2箇所骨折してKO負け病院送りにされ半年間の戦線離脱余儀無くされた。 2006年9月30日K-1 WORLD GP 2006 開幕戦ファン投票1位とK-1が発表バダ・ハリ予選グラハム敗れているためGP開幕戦出場無かったが、K-1の推薦選手としてGP開幕戦出場ルスラン・カラエフ対戦試合直前控え室ではK-1のルール管轄する日本人スタッフが、バダ・ハリの使うルール違反の足の保護サポーターを「これは試合使えない」と注意するイライラ募らせパイプ椅子持ち上げて全力地面叩きつけて暴れたりその日本人スタッフ大声罵倒して「あいつをここから出て行かせろ!」「あいつは敵から送り込まれた!」などと言い放ち放送禁止用語暴言連発した。試合ではインローバランス崩したところにカラエフ左右フック受けてダウン。1RKO負け喫した試合後、怒りあらわにしたバダ・ハリリング上で抗議し暫くリング降りようとしなかった。リプレイ映像ではカラエフの右フックバダ・ハリテンプル当たってバダ・ハリ倒れていたり、カラエフフック倒れたバダローキック放つシーンコンビネーション流れであるため結果は覆らなかった。カラエフも「膝がつく前に蹴っていたのだから反則ではない」と話している。怒り収まらないハリ控え室に戻る途中で会場案内標識スピーカー破壊するなど大暴れした。 12月2日K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦スーパーファイトポール・スロウィンスキー対戦ローキック一本攻めるスロウィンスキーを手数押し判定勝ちを収めた12月31日K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!ニコラス・ペタス対戦バダ打撃によりペタス左腕骨折し2ラウンドTKO勝ちとなった

※この「K-1参戦」の解説は、「バダ・ハリ」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「バダ・ハリ」の記事については、「バダ・ハリ」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:57 UTC 版)

左右田泰臣」の記事における「K-1参戦」の解説

2014年11月3日K-1 WORLD GP -65kg初代王座決定トーナメント出場1回戦木村ミノル対戦し2R膝蹴りで2ダウン奪いKO勝ち。準決勝HIROYA|と対戦し2-0判定勝ち。決勝ゲーオ・ウィラサクレック対戦し0-2判定負け喫した2015年4月19日K-1 WORLD GP 2015 ~-55kg 初代王座決定トーナメント~で久保優太対戦し判定勝ちを収めた2015年7月4日K-1 WORLD GP 2015 ~-70kg初代王座決定トーナメント~でゲーオ・ウィラサクレック対戦し2Rに左フックダウン奪われ判定負け喫した2015年11月21日K-1 WORLD GP 2015 IN JAPAN ~THE CHAMPIONSHIP~で野杁正明対戦し判定負け喫した2016年3月4日K-1 WORLD GP 2016 -65kg日本代表決定トーナメント出場1回戦山崎秀晃対戦し、2RKO負け喫した2017年4月2日、Krush.75で松下大紀と対戦し、2RKO勝ち。 2017年8月6日、Krush.78のKrush -65kgタイトルマッチ王者中澤純対戦し延長戦までもつれた接戦の末に1-2判定負け喫し王座獲得失敗した2017年12月9日、Krush.83でREBELSのトップファイターである中村広輝と対戦し終始ペース握り3Rにはダウン奪い判定勝ち。 2019年8月31日、K-1 KRUSH FIGHT.104で鈴木勇人KRUSHスーパー・ライト級王座挑戦延長戦の末判定負けキック引退

※この「K-1参戦」の解説は、「左右田泰臣」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「左右田泰臣」の記事については、「左右田泰臣」の概要を参照ください。


K-1参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:32 UTC 版)

HIROYA」の記事における「K-1参戦」の解説

2006年9月魔裟斗所属するシルバーウルフジムを単身訪れ自分技術見せた当初魔裟斗彼のことを自分ファンだと思い込んでいた)。すると、その技術驚いた魔裟斗谷川貞治K-1プロデューサーそのこと報告、同プロデューサーそのことHIROYA本人伝え、K-1参戦が決定した2007年2月5日アマチュアルールK-1 WORLD MAX 2007日本代表決定トーナメント〜のワンマッチ15歳参戦20歳高橋明宏3Rローキックタオル投入によるTKO下しK-1初勝利を飾った2007年4月4日K-1 WORLD MAX 2007世界最終選抜〜において、西村憲孝と対戦。1Rに3度ダウン奪い、1RKO勝ち。

※この「K-1参戦」の解説は、「HIROYA」の解説の一部です。
「K-1参戦」を含む「HIROYA」の記事については、「HIROYA」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「K-1参戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「K-1参戦」の関連用語

K-1参戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



K-1参戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジェロム・レ・バンナ (改訂履歴)、ジョルジオ・ペトロシアン (改訂履歴)、オーレ・ローセン (改訂履歴)、スタン・ザ・マン (キックボクサー) (改訂履歴)、金子晃大 (改訂履歴)、ジョン・ウェイン・パー (改訂履歴)、バダ・ハリ (改訂履歴)、左右田泰臣 (改訂履歴)、HIROYA (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS