軍人生活
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帰国後は、近衛歩兵第3連隊長・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。 支那事変(日中戦争)では第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加した。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部という位置にもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。1939年(昭和14年)に陸軍大将に昇進。 1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇に謁見した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム南部)進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇大権によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、イギリス訪問時に感銘を受けた昭和天皇の立憲君主制への拘りは強く、東久邇宮の助言は届かなかったという。 日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。対米戦争回避を主張するリベラル派の皇族である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、日米交渉妥結を志向する近衛文麿・広田弘毅・海軍ら穏健派以外のみならず、強硬派の東条英機も東久邇宮が陸軍の軍人であることから賛成した。しかし木戸幸一内大臣の、皇室に累を及ぼさぬようにという反対によりこの構想は潰れ、東条が首相に抜擢された。 日華の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招き入れ、戦争回避の糸口を模索するも結局は開戦に至った。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。 1941年12月に防衛総司令官へ就任。 1942年(昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。 大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走した。 1945年(昭和20年)4月16日、東京大空襲に遭遇。港区麻布にあった東久邇宮御殿本邸が全焼したが、東京にとどまり敷地の防空壕の近くに一間の仮居を建てて終戦まで暮らした。もっとも大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える佐々木武雄が率いる「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされるという被害に遭っている。
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