立憲君主制
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注釈
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「君主」の原文:
- ^ 『日本大百科全書』「立憲君主制」の原文:第一次世界大戦前のドイツや戦前の日本でも憲法は存在したが、そこでは、君主や天皇が行政権を掌握し、数々の強大な大権を有し、議会の権限はきわめて弱かったから、立憲君主制といってもそれは名ばかりで、とうていこれらの国々は民主主義国家とはいえなかった。このような立憲君主制は外見的立憲主義とよばれ、イギリスのような立憲君主制は議会主義的君主制とよばれる。
第二次世界大戦後も君主を擁する国々――その数はいまや十数か国にすぎない――が存在するが、そのほとんどはイギリス型の立憲君主制をとっており、ベルギー、ルクセンブルクなどのように憲法上、国民主権主義を明記している国もある。戦後日本では、憲法上、国民主権主義を明確化し、天皇主権主義を廃止し、天皇は政治的権限をもたない象徴的地位についた。この意味で戦後の日本は、事実上、国民主権主義をとる民主国家と規定できよう。[4][13] - ^ 榎原猛『君主制の比較憲法学的研究』有信堂、1969年、46頁以下。ただし榎原の分類においては、君主主義的立憲君主制度と専制君主制度(主権者たる君主が国権を発動するに際し、独立機関を通じず直接行使すること)との区分が、やや明白ではないように思われる。榎原は、1960年代のサウジアラビア、ネパールを「専制君主制度」とし、同年代のモナコ、エチオピアを君主主義的立憲君主制度としている。しかしネパールについては、一応は憲法典が存在したのであり、「外見的立憲君主制度」の君主主義的立憲君主制度の国と分類できなくはないはずである。また榎原自身、モナコは「専制君主国に数えることも法理的に無理ではないであろう」(同書125頁)とし、エチオピアは「われわれをして、『立憲君主制度』といいきることに、若干のためらい与える」(同書147頁)として、分類に迷いが見られる。
- ^ 憲法および他の法令には「立憲君主制」や「君主」に対する直接的な記述はなく、日本政府の見解としては立憲君主制とみなしても差し支えないとしている一方で、学説として議論がある。なお明治以降、大正・昭和・平成・令和期現在に至る天皇の地位の解釈及び学説は#日本を参照。また、象徴天皇制及び日本国憲法第1条も参照。
- ^ 国王が首相を兼任し、閣僚、裁判官、立法評議会議員の任免も国王が掌握しているなど、事実上の絶対君主制にある。
- ^ マレーシアの国王は正式にはアゴンと呼ばれ、各州の君主による輪番制である。象徴的存在であり実権を有さない。象徴元首も参照。
- ^ 儀礼的な行為も含め全ての政治的権限を失い、称号のみ存在する形のスウェーデンの立憲君主制は「象徴君主制」とも評される。
- ^ アンドラ公国は、「公国」と冠しているものの世襲の君主は存在せず、実態はフランス元首(大統領)とウルヘル司教の2名の共同大公を戴く議会制である。憲法で国民主権が明記され、また元首の職務も大公使の接受、法律・条約の認証など儀礼的であり、実際の外交権は内閣が、条約の締結は国会が行使する
- ^ サモア独立国の国家元首(大首長またはオ・レ・アオ・オ・レ・マーロー)は世襲の4人の大首長から選出されることが慣例となっており敬称も殿下であるなど君主制の性格を有している一方で、その選出は議会が行い、任期(5年)が定められているなど共和制の性格も有しており、国によっては同国を共和国とみなしている場合がある。なお日本の外務省は同国の政体は「選挙により国家元首を選ぶ制度」としている。
- ^ 君主号は、1957年に「スルターン」(Sultan) から「国王」(King) に変更された。
出典
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- ^ a b c d e f g h i j k l m 田中 2022, p. 「立憲君主制」.
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- ^ 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。「くん‐しゅ【君主】世襲により国家を治める最高位の人。天子。王。皇帝。帝王。」
- ^ 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。「くんしゅ【君主】世襲的に国家を代表し,統帥する最高の地位にある人。帝王。天子。皇帝。きみ。」
- ^ 畑安次 著「君主主権」、小学館 編『日本大百科全書(ニッポニカ)』JapanKnowledge、2016年。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 田中浩 (政治学者) 著「立憲君主制」、小学館 編『日本大百科全書(ニッポニカ)』JapanKnowledge、2016年。
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- ^ a b c 小林章夫 『女王、エリザベスの治世 先進国の王政記』 角川oneテーマ21 2012年5月 P3以下
立憲君主
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「ペドロ1世 (ブラジル皇帝)」の記事における「立憲君主」の解説
9月7日を過ぎてもジョアン6世はいまだに独立したブラジル王国の正当な統治者として承認されていなかった。ブラジル独立運動は王に対してではなく、単にコルテスによる支配体制とみなされていた。摂政王子は王ではなく皇帝としてブラジルの帝冠を受諾するように説得されていた。しかしペドロははっきりとせず、父王がブラジルに戻ってくればブラジルの王座を手放すつもりでいた。 24歳の誕生日に彼はドン・ペドロ1世とされ、同日10月12日にブラジル帝国が建国された。彼は12月1日に戴冠した。彼の優位はすぐにブラジル全域に広まったわけではなかった。彼は北部、北東と南部地域のいくつかの州を恭順させなければならなかった。そしてポルトガルの最後の抵抗部隊が降伏したのは1824年であった。 その間にペドロ1世とボニファシオの関係は悪化した。皇帝は彼をいったんは助言者とみなしたが、 ボニファシオの役割を新参者の卑屈な地位である学校長にしたことで摩擦がおきた。ペドロ1世が不適切な行為を理由にボニファシオとその兄マルティン・フランシスコ・デ・アンドラダ(英語版)を官職から遠ざけたとき状況は最悪になった。権威主義者で権力の乱用をも辞さないボニファシオはその地位を、政敵を苦しめ起訴し逮捕し、追放することにさえ利用してきた。数か月間、ボニファシオの政敵は、皇帝を味方につけようと画策した。ペドロ1世がまだ摂政王子だった1822年5月13日に、彼らはペドロに「ブラジルの永遠の守護者」の称号を与えた。8月2日に彼らはペドロ1世をフリーメイソンに入会させ、10月7日にボニファシオのものだった「大親方」(グランドマスター)の地位をペドロ1世に与えた。 皇帝とかつての大臣との間の危機はすぐに、憲法を起草するために選ばれた制憲立法議会に飛び火した。制憲立法議会議員でもあったボニファシオは、ブラジルの利益に対するポルトガルによる大きな陰謀の存在を主張し、ポルトガル生まれのペドロ1世も加担しているとほのめかす大衆扇動に訴えた。ポルトガル生まれの市民の忠誠心に対する侮蔑と、彼自身のブラジルへの忠誠に葛藤があるという暗示に皇帝は激怒した。1832年11月12日、ペドロ1世は制憲立法議会の解散を命令し、新しい議員を召集した。翌日、彼は土着の憲法の起草を担う枢密院を設置した。草案の写しはすべての都市の議会に送られ、大多数が賛成に投票し、帝国憲法はすぐに採用された。1824年3月25日に憲法は公布され、厳粛に宣誓された。憲法によって建国された高度に中央集権的な国家の結果として、セアラー州, パライバ州とペルナンブコ州での反乱者はブラジルからの脱退を企み、後に赤道連邦として知られるものに連合した。ペドロ1世は反乱軍をなだめるための申し出によって流血を避けようとしたが失敗した。怒ってペドロ1世は言った。「ペルナンブコからの侮辱は何が必要だったのか?必ずや罰を与える、先例として将来に資するような罰をだ!」反乱はその地域を掌握することはできずに容易に鎮圧された。1824年の終わりまでに反乱は終息した。16人の反乱者が裁判にかけられて処刑されたが、 その他の反乱者は皇帝によって赦免された。
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「立憲君主」の例文・使い方・用例・文例
- 立憲君主制
- 立憲君主国
- 立憲君主国.
- 立憲君主政体
- 我が国の政体は立憲君主政体である
- 北欧の立憲君主国
- スカンジナビア半島の西側の北ヨーロッパの立憲君主国
- 日本列島を占める立憲君主国
- ヨーロッパ北西部の北海に面した立憲君主国
- アフリカ南部の、陸地に囲まれている立憲君主国
- オーストリアとスイスの間でアルプス山脈にある中央ヨーロッパの小さな陸地に囲まれた公国(立憲君主制度)
- フランスと、ベルギーとドイツの間の北西のヨーロッパで陸地に囲まれている大公国(立憲君主国)
- ボルネオとマレー半島の南東のアジアの立憲君主国
- フランスリビエラの小さなとび領土の立憲君主国家
- 主にイスラム人口による北西部アフリカの王国(立憲君主制度)
- 南太平洋のサモア諸島西部を占める立憲君主国
- 日本の天皇で、第二次世界大戦の終わりに降伏した後に、彼の神性を放棄して、立憲君主になった(1901年−1989年)
- 立憲君主制という,君主の権力が議会によって制限をうけるような政治体制
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