内外の危機とは? わかりやすく解説

内外の危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 15:49 UTC 版)

イヴァン・アレクサンダル」の記事における「内外の危機」の解説

1345年イヴァン・アレクサンダルは妃のテオドラ修道院入れて離縁しサラという名前のユダヤ人女性再婚したキリスト教改宗したサライヴァン・アレクサンダル最初の妻と同じ名前のテオドラ改名しイヴァン・アレクサンダル最初の妻との間にもうけた子供の中で唯一生存していたイヴァン・スラツィミル帝位継承権を奪うため、1356年イヴァン・スラツィミルヴィディン統治命じた新しい妻との間にもうけた子供たち共同統治者とされ、1356年頃にイヴァン・シシュマン、1359年イヴァンを共治帝として戴冠された。ワラキアドブルジャのように独自に外交展開する強力な従属国に対しては、イヴァン・アレクサンダル強い影響力行使した14世紀半ばからブルガリアハンガリー王国ラヨシュ1世攻撃目標となっていた。1352年モルダヴィア併合したハンガリー従属国を置き、1365年ハンガリーヴィディン占領しヴィディン統治していたイヴァン・スラツィミル彼の家族ハンガリー王国捕虜とされた。 オスマン皇帝ムラト1世バルカン半島征服をより効率よく進めるため、アドリアノープルエディルネ)をヨーロッパ方面本拠地定めていた。バルカン半島進出したオスマン軍は南ブルガリア攻撃し1364年ブルガリア領有するフィリッポポリスとボルイ(スタラ・ザゴラ)がオスマンの手に渡る。同1364年ビザンツ軍は黒海沿岸部ブルガリア領に侵入しビザンツ軍はメセンブリアネセバル)にまで到達した和平条約締結された後ビザンツ軍はブルガリアから撤退し、これが最後のブルガリア・ビザンツ間の戦争となった1366年西欧訪問していたヨハネス5世自国戻ろうとした折、ブルガリアヨハネス5世通過拒んだ。しかし、この姿勢ビザンツ同盟者であるサヴォイア伯国アメデーオ6世による十字軍引き起こしたアンキアルスポモリエ)やメセンブリアなどのブルガリア港湾都市陥落しヴァルナはかろうじてサヴォイア十字軍攻撃しのいだイヴァン・アレクサンダル和平締結余儀なくされるビザンツからブルガリアに180,000フロリン支払われ、その代償としてサヴォイア十字軍占領したブルガリアの都市ビザンツ引き渡された。 イヴァン・アレクサンダル名目上ブルガリア帝国臣下であるドブルジャのドブロティツァとワラキアヴラディスラヴ1世ビザンツから支払われ補償金授与領土譲渡提案して彼らの助力を得、ヴィディンハンガリーから奪回しようと試みたブルガリアヴィディンハンガリーから奪回し1369年イヴァン・スラツィミルヴィディン統治者地位返り咲きハンガリー王国イヴァン・スラツィミル地位やむなく承認するブルガリア北西部危機克服一定の成功を収めるが、侵食されブルガリア南東部回復には寄与しなかった。ブルガリアセルビアは反オスマン連合準備進めるが、その最中1371年2月17日イヴァン・アレクサンダル没するイヴァン・アレクサンダル死後タルノヴォはイヴァン・シシュマン、ヴィディンイヴァン・スラツィミル相続しドブルジャワラキアはより独立性強めた

※この「内外の危機」の解説は、「イヴァン・アレクサンダル」の解説の一部です。
「内外の危機」を含む「イヴァン・アレクサンダル」の記事については、「イヴァン・アレクサンダル」の概要を参照ください。

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