内外の危機
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「イヴァン・アレクサンダル」の記事における「内外の危機」の解説
1345年にイヴァン・アレクサンダルは妃のテオドラを修道院に入れて離縁し、サラという名前のユダヤ人女性と再婚した。キリスト教に改宗したサラはイヴァン・アレクサンダルの最初の妻と同じ名前のテオドラに改名し、イヴァン・アレクサンダルは最初の妻との間にもうけた子供の中で唯一生存していたイヴァン・スラツィミルの帝位継承権を奪うため、1356年にイヴァン・スラツィミルにヴィディンの統治を命じた。新しい妻との間にもうけた子供たちは共同統治者とされ、1356年頃にイヴァン・シシュマン、1359年にイヴァンを共治帝として戴冠された。ワラキアやドブルジャのように独自に外交を展開する強力な従属国に対しては、イヴァン・アレクサンダルは強い影響力を行使した。 14世紀半ばからブルガリアはハンガリー王国のラヨシュ1世の攻撃の目標となっていた。1352年にモルダヴィアを併合したハンガリーは従属国を置き、1365年にハンガリーはヴィディンを占領し、ヴィディンを統治していたイヴァン・スラツィミルと彼の家族はハンガリー王国の捕虜とされた。 オスマン皇帝ムラト1世はバルカン半島の征服をより効率よく進めるため、アドリアノープル(エディルネ)をヨーロッパ方面の本拠地に定めていた。バルカン半島に進出したオスマン軍は南ブルガリアを攻撃し、1364年にブルガリアが領有するフィリッポポリスとボルイ(スタラ・ザゴラ)がオスマンの手に渡る。同1364年にビザンツ軍は黒海沿岸部のブルガリア領に侵入し、ビザンツ軍はメセンブリア(ネセバル)にまで到達した。和平条約が締結された後ビザンツ軍はブルガリアから撤退し、これが最後のブルガリア・ビザンツ間の戦争となった。 1366年に西欧を訪問していたヨハネス5世が自国に戻ろうとした折、ブルガリアはヨハネス5世の通過を拒んだ。しかし、この姿勢はビザンツの同盟者であるサヴォイア伯国のアメデーオ6世による十字軍を引き起こした。アンキアルス(ポモリエ)やメセンブリアなどのブルガリアの港湾都市が陥落し、ヴァルナはかろうじてサヴォイア十字軍の攻撃をしのいだ。イヴァン・アレクサンダルは和平の締結を余儀なくされる。ビザンツからブルガリアに180,000フロリンが支払われ、その代償としてサヴォイア十字軍が占領したブルガリアの都市がビザンツに引き渡された。 イヴァン・アレクサンダルは名目上のブルガリア帝国の臣下であるドブルジャのドブロティツァとワラキア公ヴラディスラヴ1世にビザンツから支払われた補償金の授与と領土の譲渡を提案して彼らの助力を得、ヴィディンをハンガリーから奪回しようと試みた。ブルガリアはヴィディンをハンガリーから奪回し、1369年にイヴァン・スラツィミルはヴィディンの統治者の地位に返り咲き、ハンガリー王国もイヴァン・スラツィミルの地位をやむなく承認する。 ブルガリア北西部の危機の克服は一定の成功を収めるが、侵食されたブルガリア南東部の回復には寄与しなかった。ブルガリアとセルビアは反オスマンの連合の準備を進めるが、その最中の1371年2月17日にイヴァン・アレクサンダルは没する。イヴァン・アレクサンダルの死後、タルノヴォはイヴァン・シシュマン、ヴィディンはイヴァン・スラツィミルが相続し、ドブルジャとワラキアはより独立性を強めた。
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