親子内親王による徳川宗家の存続嘆願
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「親子内親王による徳川宗家の存続嘆願」の解説
慶喜は大阪城で既に、天皇へ恭順謹慎と決心していたが、本心は秘めてひとに語っていなかった。このため人々はみな、東帰は再挙の為だとばかり思い込んでいた。慶喜は開陽丸の船中ではじめて老中・板倉勝静へその本心を告げたが、板倉以外の人は、慶喜の心にある尊王の本心を誰も知らなかった。 そこで慶喜が江戸城に帰ると、ただちに和宮親子内親王の侍女・錦小路から、「さる3日、上洛(朝廷へ参内)のところ、薩長勢が無謀に君側を支えていたのでやむをえず両藩との戦に及んだが、朝廷では反逆の色があるかのよう聞し召されたので、ひとまず東帰つかまつりました」と親子内親王へ言上した。親子内親王はすでに9日、老中・稲葉正邦と会津藩士の手からもたらされた討薩表を読んでいたので、ほぼ戦が起きた事を知っていたが、「さきの内府(内大臣。慶喜)公が、もし朝敵の名を受けるべきおこないをしたなら、そんな書(言上書)はみとうない」といった。家定の正室・天璋院はこの日の午後4時ころ慶喜と対面し、鳥羽・伏見の戦いから帰ってきた次第をきかせられ、かつ、親子内親王と慶喜のあいだに入ってうまくとりなした。慶喜は15日の正午に親子内親王と会うと、くわしく大政奉還からの顛末を述べて「去年の冬、時勢を察して大政奉還の建白を奏聞いたしましたところ、朝廷はこれを聞し召され、諸侯も招集にこたえて追々京都へ参ったので、広く公論を尽くし、そこで以前から心におもっていた皇国に仕えたてまつるべき志を申そうと考えていました。12月9日、いきなり尾張藩、越前藩(福井藩)、土佐藩、広島藩、薩摩藩の5藩が御所の門を閉めると守備の兵隊で固め、朝廷は即刻のご変革を仰せ出されました。尾張と越前がお使いとして二条城にくると、私へ内大臣の官位を辞退するようにいい、かつ天皇家は200万石の土地収入をわが徳川宗家からいただくので、そのあまりは私へさしあげますとのご沙汰がありました。これをきくとわが家臣一同が沸騰して、兵端を開こうとする勢いになってしまいました。よって部下の鎮撫のために一旦下阪(大阪へ移動)し、少々は静まったのですが、正月の元日に尾張殿(徳川慶勝)と越前殿(松平春嶽)が下阪し、前のご沙汰にかさねて、はやく土地収入を天皇家へ朝貢するようご催促がありました。かつ、上京して(京都へきて)して下さいといわれたので、同3日に先手が進発し4つ塚の御所の門に至ったのですが、薩摩勢が何者だと咎めたので、徳川氏が上洛する先供であると答えると、徳川なら入京を止められていると言い張られ、問答しているうち、薩長勢が発砲の挙に及びました。やむをえないので戦争に及んだのですが、ゆくりなくも朝敵の汚名をこうむり、しかも朝廷は大阪城へ薩長をつきそいとして勅使をくだされるむねを伝え聞いていたので、このままではなおも一層部下が沸騰するだろうことをおもい、大阪城を尾張藩殿と越前殿へあずけ、ひとまず江戸へ帰ってきたのです」と説明した。翌16日、天璋院が「なにがし(慶喜公)は退隠つかまつるべきなので、(徳川宗家の)相続人は田安(御三卿・田安徳川家の徳川家達)で然るべきではないか。またこのたびのことにつき、徳川家のために宮(親子内親王)から朝廷へお詫びあらせられたい」などというと、親子内親王は「(宗家の)相続人の選定は表立ってのことなので、公然と老中の詮議をへてから朝廷へ奏上させるべきでしょう。哀訴嘆願のことにいたっては、心をこめ力を尽くして周旋しましょう」といった。 小松宮彰仁親王が京都を進発しすでに桑名城を収奪し、すでに箱根にまで侵攻していると江戸城にきこえていたので、17日親子内親王は天璋院とともに慶喜に対面し、相談のあと朝廷への嘆願のために女性の使いを京都に遣わすべきことと定まり、21日に上臈・土御門藤子が、親子内親王から母方の親族である橋本実麗と橋本実梁父子への書と、3通の慶喜からの嘆願書をたずさえ、江戸を出発した。慶喜の嘆願書は親子内親王へ宛てた手紙でお詫びを頼んでいる形式で、正月20日に書かれた「慶喜相続以来、あいかわらず尊王の道を心がけていたが、このほどの事件、一時の行き違いとは申しながら朝廷に対して恐れ入りたてまつるところでございます。ついてはそれがし(私)は退隠つかまつり、宗家の跡式(あとしき)(家督と財産の相続関係)はこちらでよく選んで申しあげさせていただきます。けれども、道端のうわさでは、朝廷からこちら(江戸、東日本)へご軍隊を差し向けられていらっしゃるかのよう伝聞いたしております。ただいま述べたようなことがございましたならば、臣子の情から、あるいは騒乱を生じて叡慮を悩ましたてまつったことともなりますので、なにとぞそれがしの心底の(尊王の大義に至誠一貫の)ほどをご照察あそばされ、なおこのうえ当家(徳川宗家)が無事に永続し、あいかわらず天皇家への忠勤を尽くすことのできますよう、御所の方へよろしくご周旋をお願いもうしあげます」との内容だった。親子内親王から橋本実梁へ宛てては「叡慮のほども伺い申さずに願い出でるはおそれおおいことではありますが、心痛にたえかねお願いを試みます。さる3日、召により慶喜が上洛のところ、不慮の戦争となり、朝敵の汚名をこうむったのでひとまず帰府(江戸へ帰還)したところ、ご征伐のため、官軍をさしむけられたるようにうけたまわり、当家(徳川宗家)の浮沈はこのときなりと心痛がいたします。慶喜からうけたまわったおもむきは、委細を藤子(土御門藤子)から申し入れるとおりでごじます。何分、双方からうけたまわらずには理非がわかりかねます。このたびの一件はともかくも重々不行き届きのことゆえ、慶喜一身をどのようにも仰せつけられ、なにとぞ家名はたちゆくよう幾重にも願いたく存じます。後世まで当家(徳川宗家)が朝敵の汚名をのこすようなことは、私の身にとって実に残念に存じます。私へのご憐憫とおぼしめされ、汚名をそそぎ家名が相立つようわが身命にかえて願いあげます。なにがなんでも官軍をさしむけられ、お家のお取り潰しになってしまえば、私も当家(徳川宗家)の滅亡を見つつ生き永らえているのは残念で、きっと覚悟をいたすべき所存です。私の一命は惜しいと申しませんが、朝敵と共に身命をすてるのは朝廷へ恐れ入ることと、誠に心痛が致しております。私の心中をご憐憫あらせられ、願いのとおり家名をたてていただけるよう、私については申すまでもなく、一門・家僕(家の使い)の者どもも深く朝恩を仰ぐことと存じ申し上げます」と書かれていた。橋本実麗へ宛てたものも同じ趣旨だった。 藤子が出発しようとするとき、慶喜は藤子を親しくよびよせ、鳥羽・伏見の戦いからの始末を語ると「予(慶喜)の進退は天皇家(御所)からの仰せに従う。切腹との仰せなら切腹もいたす」といった。藤子が京都についたときすでに実梁は桑名にいたので、藤子はそこまでひきかえし、親子内親王の手紙をさしだすとみずからも陳情した。実梁は感動して、みずからの手紙を藤子へ託し、京都の万里小路博房から朝議をさせた。議定の岩倉具視、倉橋泰聡、長谷信篤らが議論し、藤子に手紙を託して江戸へかえらせた。手紙は親子内親王へ宛てて「このたびのことは実に容易ならざる儀だが、(鳥羽・伏見の戦いの条理を明白にし(慶喜の)謝罪の道さえたてば、朝敵であるところの徳川家の血食(子孫が続き先祖の祭りごとを絶やさない事)については、宮(親子内親王)の厚い思し召しがあらせられるようにうかがわれるので、そうならば朝廷ではそのむねご承知いたしました」との内容だった。藤子はこの朝命をたずさえて2月末、江戸へ帰った。
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