親子内親王による徳川宗家の存続嘆願とは? わかりやすく解説

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親子内親王による徳川宗家の存続嘆願

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「親子内親王による徳川宗家の存続嘆願」の解説

慶喜大阪城で既に、天皇恭順謹慎決心していたが、本心秘めてひとに語っていなかった。このため人々はみな、東帰は再挙の為だとばかり思い込んでいた。慶喜開陽丸船中ではじめ老中板倉勝静その本心を告げたが、板倉以外の人は、慶喜の心にある尊王本心誰も知らなかった。 そこで慶喜江戸城帰ると、ただちに和宮親子内親王侍女錦小路から、「さる3日上洛朝廷参内)のところ、薩長勢が無謀に君側支えていたのでやむをえず両藩との戦に及んだが、朝廷では反逆の色があるかのよう聞し召されたので、ひとまず東帰つかまつりました」と親子内親王言上した。親子内親王はすでに9日老中稲葉正邦会津藩の手からもたらされ討薩表読んでいたので、ほぼ戦が起きた事を知っていたが、「さきの内府内大臣慶喜)公が、もし朝敵の名を受けるべきおこないをしたなら、そんな書(言上書)はみとうない」といった。家定正室天璋院はこの日の午後4時ころ慶喜対面し鳥羽・伏見の戦いから帰ってきた次第きかせられ、かつ、親子内親王慶喜のあいだに入ってうまくとりなした慶喜15日正午親子内親王と会うと、くわしく大政奉還からの顛末述べて去年の冬、時勢察して大政奉還建白奏聞いたしましたところ、朝廷はこれを聞し召され諸侯招集こたえて追々京都参ったので、広く公論尽くし、そこで以前から心におもっていた皇国仕えたてまつるべき志を申そう考えていました12月9日、いきなり尾張藩越前藩福井藩)、土佐藩広島藩薩摩藩の5藩が御所の門を閉めると守備兵隊固め朝廷即刻のご変革仰せ出されました。尾張越前お使いとして二条城にくると、私へ内大臣官位辞退するようにいい、かつ天皇家200万石土地収入をわが徳川宗家からいただくので、そのあまりは私へさしあげますとのご沙汰ありました。これをきくとわが家一同沸騰して兵端開こうとする勢いになってしまいました。よって部下鎮撫のために一旦下阪大阪移動)し、少々静まったのですが、正月元日尾張殿(徳川慶勝)と越前殿(松平春嶽)が下阪し、前のご沙汰かさねて、はやく土地収入天皇家朝貢するようご催促ありました。かつ、上京して京都へきて)して下さいといわれたので、同3日先手進発4つ塚の御所の門に至ったのですが、薩摩勢が何者だと咎めたので、徳川氏上洛する先供であると答えると、徳川なら入京止められていると言い張られ問答しているうち、薩長勢が発砲の挙に及びました。やむをえないので戦争及んだのですが、ゆくりなく朝敵汚名こうむり、しかも朝廷大阪城薩長つきそいとして勅使くだされるむねを伝え聞いていたので、このままではなおも一層部下沸騰するろうことをおもい、大阪城尾張藩殿と越前殿へあずけ、ひとまず江戸へ帰ってきたのです」と説明した。翌16日天璋院が「なにがし慶喜公)は退隠つかまつるべきなので、(徳川宗家の)相続人田安御三卿田安徳川家徳川家達)で然るべきではないか。またこのたびのことにつき、徳川家のために宮(親子内親王)から朝廷お詫びあらせられたい」などというと親子内親王は「(宗家の)相続人選定表立ってのことなので、公然と老中詮議へてから朝廷奏上させるべきでしょう哀訴嘆願のことにいたっては、心をこめ力を尽くして周旋しましょう」といった。 小松宮彰仁親王京都進発しすでに桑名城収奪し、すでに箱根にまで侵攻していると江戸城きこえていたので、17日親子内親王天璋院とともに慶喜対面し相談のあと朝廷への嘆願のために女性使い京都遣わすべきことと定まり21日上臈土御門藤子が、親子内親王から母方親族である橋本実麗橋本実梁父子への書と、3通の慶喜からの嘆願書たずさえ江戸出発した慶喜嘆願書親子内親王宛てた手紙お詫び頼んでいる形式で、正月20日書かれた「慶喜相続以来あいかわらず尊王の道を心がけていたが、このほど事件一時行き違いとは申しながら朝廷に対して恐れ入りたてまつるところでございます。ついてはそれがし私)退隠つかまつり宗家跡式あとしき)(家督財産相続関係)はこちらでよく選んで申しあげさせていただきます。けれども、道端のうわさでは、朝廷からこちら(江戸東日本)へご軍隊差し向けられていらっしゃるかのよう伝聞いたしておりますただいま述べたようなことがございましたならば、臣子の情から、あるいは騒乱生じて叡慮悩ましたまつったことともなりますので、なにとぞそれがし心底の(尊王大義至誠一貫の)ほどをご照察あそばされ、なおこのうえ当家徳川宗家)が無事に永続しあいかわらず天皇家への忠勤尽くすことのできますよう、御所の方へよろしくご周旋お願いもうしあげます」との内容だった。親子内親王から橋本実梁宛てては「叡慮のほども伺い申さず願い出でるはおそれおおいことではありますが、心痛たえかねお願い試みます。さる3日、召により慶喜上洛のところ、不慮戦争となり、朝敵汚名こうむったのでひとまず帰府江戸へ帰還)したところ、ご征伐のため、官軍さしむけられたるようにうけたまわり当家徳川宗家)の浮沈はこのときなりと心痛いたします慶喜からうけたまわったおもむきは、委細藤子土御門藤子)から申し入れるとおりでごじます。何分双方からうけたまわらずには理非わかりかねますこのたび一件ともかくも重々不行き届きことゆえ慶喜一身どのように仰せつけられなにとぞ家名たちゆくよう幾重にも願いたく存じます。後世まで当家徳川宗家)が朝敵汚名をのこすようなことは、私の身にとって実に残念に存じます。私へのご憐憫おぼしめされ汚名をそそぎ家名が相立つようわが身命にかえて願いあげますなにがなんでも官軍さしむけられ、お家お取り潰しになってしまえば、私も当家徳川宗家)の滅亡を見つつ生き永らえているのは残念で、きっと覚悟をいたすべき所存です。私の一命惜しいと申しませんが、朝敵と共に身命をすてるのは朝廷恐れ入ることと、誠に心痛致しております。私の心中をご憐憫あらせられ、願いのとおり家名をたてていただけるよう、私については申すまでもなく、一門・家僕(家の使い)の者ども深く朝恩を仰ぐことと存じ申し上げますと書かれていた。橋本実麗宛てたものも同じ趣旨だった。 藤子出発しようとするとき、慶喜藤子親しくよびよせ鳥羽・伏見の戦いからの始末を語ると「予(慶喜)の進退天皇家御所)からの仰せに従う。切腹との仰せなら切腹もいたす」といった。藤子京都についたときすでに実桑名にいたので、藤子そこまでひきかえし親子内親王の手紙をさしだすとみずからも陳情した。実感動して、みずからの手紙を藤子託し京都万里小路博房から朝議をさせた。議定岩倉具視倉橋泰聡長谷信篤らが議論し藤子手紙託して江戸へかえらせた。手紙親子内親王宛ててこのたびのことは実に容易ならざる儀だが、(鳥羽・伏見の戦い条理明白にし(慶喜の)謝罪の道さえたてば、朝敵であるところの徳川家血食子孫続き先祖祭りごとを絶やさない事)については、宮(親子内親王)の厚い思し召しあらせられるようにうかがわれるので、そうならば朝廷ではそのむねご承知いたしました」との内容だった。藤子はこの朝命たずさえて2月末、江戸へ帰った

※この「親子内親王による徳川宗家の存続嘆願」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
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