美術学校時代
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1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業した。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。 1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。1910年(明治43年)3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。1911年(明治44年)、自ら東京版画倶楽部を開設し、そこからの刊行となった「草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来の浮世絵版画の形式を追った作品であった。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。
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美術学校時代
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4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという。翌年、ようやく治療の順番が回って来る通知を病院から受け、再上京して相模原病院で待機し、しばらく後に再手術は無事完了(麻酔が不足していたために結構痛みを伴うものだったとのことで、術後10日程で元気なれたと後年水木は述懐している)。 病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請する成り行きとなり、転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。 経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。 生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。 学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で東海道募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて神戸に辿り着いた時には這々の体になりかけていた。結局美術学校は、その数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。
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