美術学校時代とは? わかりやすく解説

美術学校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 05:47 UTC 版)

山本鼎」の記事における「美術学校時代」の解説

1901年明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公終えた鼎は、他人下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年明治35年)、東京美術学校西洋画選科予科入学した在学中1904年明治37年)、与謝野鉄幹主宰雑誌明星』に刀画「漁夫」を発表海辺人々の生活感を滲ませたこの作品リアリズムは、複製技術主体とする、従来版画にない新鮮さ示し新進気鋭版画家として注目された。それは、絵師彫師摺師三者一人で行う画期的な創作版画であった1906年明治39年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業した1907年明治40年)、鼎は創作版画奨励し、若い美術家作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭森田恒友美術文芸雑誌方寸』を創刊資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年明治44年)の終刊までに35冊を発行美術文芸分野に独特の地歩築きあげた。卒業後、鼎は雑誌さし絵文章などを書き活躍始めた1908年明治41年12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人一人としてパンの会」を発足させた。石井柏亭森田恒友倉田白羊などの『方寸同人と、北原白秋木下杢太郎らがメンバーであった1910年明治43年3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチ文章による葉書通信尋常茶飯録』の連載始めた北原白秋との親密文学的交遊うかがわせるエピソードとして興味深い1911年明治44年)、自ら東京版倶楽部開設し、そこからの刊行となった草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来浮世絵版画形式追った作品であった。鼎は同誌に木版石版ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論随筆など発表している。

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美術学校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:50 UTC 版)

水木しげる」の記事における「美術学校時代」の解説

4年振り復員帰国できた水木国立相模原病院旧・神奈川臨時第3陸軍病院現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕本格的手術順番を待つ。終戦直後医者物資の不足直ぐに順番回ってこないので、医師からも一旦故郷境港戻って良い許可を得、帰郷して養生する日々送った両親水木片腕失った事を知らなかった為、事実知った後に母が片腕使わず家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事調べて灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身生き残れ喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き出征前に目に焼き付けておいた故郷風景眺め清々しい気持ち過ごせたという。翌年、ようやく治療の順番回って来る通知病院から受け、再上京して相模原病院待機し、しばらく後に再手術は無事完了麻酔不足していたために結構痛みを伴うものだったとのことで、術後10日程で元気なれたと後年水木述懐している)。 病院直営染物工場絵付け仕事入院中の生活費稼いでいたが、雀の涙程度収入にしかならなかった。手術前後に他の患者闇米買い出しでも生活費稼ぎ本格的に闇屋家業一財産を得ようかと目論んで東北食料買い付け向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省したその後病院仲間から誘われて新生会」という「傷病兵明るい未来」をスローガン掲げて様々な事業考えていた傷痍軍人団体加盟し復員兵による廃墟ビルへの居座り募金活動などに参加した廃墟ビルへの居座り東京都から反対されて失敗したが、募金活動成果挙げた。しかし、上層部くだらない内紛加盟員の離脱が相次ぎ水木配給制において政府許可制である魚屋資格申請する成り行きとなり、転職した。予め契約取った家庭届け形式復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。 経済的に余裕出て絵に対す思い湧き26歳時に武蔵野美術学校現在の武蔵野美術大学)が学生募集中と知る。すぐに入学思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校卒業資格必要だった水木件の夜間学校掛け合ったが、「出征により退校となっていた事から卒業資格与えられない回答された。それでも在学証明書貰って美術学校直談判し特別に入校許可される1948年26歳時に入学した美術学校敗戦直後という事もあって学生服装古びていて、技術年齢層不揃いだったが懸命に学んでいたという。 生活費加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人売り相方だった通称モッちゃん(本名不詳)」が、水木とは逆に魚屋独立開業したいので、良ければ四万円で権利全て譲って欲しい」と申し出て好都合なタイミングでもあったので、その希望四万円で「モッちゃん」に売り権利を完全に売り、それを資金輪タクを四台購入一日五百円貸し出す商売細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認得ていた闇市商売続けていた。 学業と仕事明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市僅かな儲けしか得られジリ貧で、輪タク出だし近所の住民から好調だったが、やがて大手押され下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさ痛感する中で、起死回生狙って訪ねてきた「新生会」の副会長二人で東海道募金行脚挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰り旅費だけを稼ぐ目標切り替えて神戸辿り着いた時には這々の体なりかけていた。結局美術学校は、その数年後中退した。これが水木にとって最後学業への試みとなり、「色々な学校行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。

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