武蔵野美術学校時代
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1952年に秋田県立大館鳳鳴高等学校卒業(4期生)後、半年ほど郷里の小学校で図工の代用教員をしていたが、1953年に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学。武蔵野美術学校では麻生三郎や山口長男、森芳雄や山口薫らの教えを受けた。1955年には西洋画科から彫刻科に転科。学費の滞納によって落第1回、除籍6回など苦学を極めたが、1958年に武蔵野美術学校彫刻科を卒業した。戸嶋の作品には府中市界隈を描いた作品も数多い。 武蔵野美術学校卒業後には彫刻科助手に就任し、1967年に助手を退任。この年には麻生の推薦によって東京・銀座のサヱグサ画廊で初個展を開催し、また武蔵野美術学校で職員を務めていた女性と結婚した。この時期には銀座の清澄画廊主である田中孝一と知り合い、終生にわたって親交を深めた。1970年には山口長男の絵画研究グループで油絵制作やデッサン研究などを行い、三島由紀夫の自決を機に森をモチーフとするようになった。
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