第3、第4の哨戒 1944年4月 - 8月
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「クレヴァル (潜水艦)」の記事における「第3、第4の哨戒 1944年4月 - 8月」の解説
4月4日、クレヴァルは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。4月25日、クレヴァルは北緯07度11分 東経116度46分 / 北緯7.183度 東経116.767度 / 7.183; 116.767の地点で、漁船3隻を従えてパラワン島のプエルト・プリンセサからラブアンに向かっていた柏丸(丸辰海運、972トン)に向けて魚雷を発射。柏丸は最初の3本を回避したが、続く2本の魚雷が命中して轟沈した。5月6日朝、クレヴァルはボルネオ島北岸でミリからマニラに向かっていたミ02船団を発見。船団中最大の船舶であった捕鯨母船改造のタンカー日新丸(西大洋漁業、16,801トン)に向けて雷撃し、8時1分に後部に魚雷2本が命中して日新丸は5分で沈没し多量の石油を喪失した。その後、クレヴァルは避難民救助という特別任務の命を受けてネグロス島に向かった。5月11日、クレヴァルはネグロス島に接近し、アメリカ人宣教師の手引きによって集まったバターン死の行進から逃れた者や28名におよぶ女性や子供ら総計48名を収容した。この収容された者の中には、海軍乙事件でセブ島に不時着し、現地ゲリラの捕虜となった福留繁中将ら連合艦隊司令部幕僚から押収した数々の最重要文書を携えていた者もいた。クレヴァルは避難民を収容した後ネグロス島を離れ、フリーマントルに向かった。5月14日には日本軍機の爆撃を受けたが辛くも逃れた。その後フラッシャー (USS Flasher, SS-249) などとともに、四塩化炭素中毒に見舞われたアングラー (USS Angler, SS-240) に対する支援を行ったのち、5月19日にダーウィンで避難民を上陸させた。5月28日、クレヴァルは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 6月21日、クレヴァルは4回目の哨戒でアングラー、フラッシャーとともにウルフパックを構成し南シナ海に向かった。7月25日夜、クレヴァルはルソン島北西海域でヒ68船団を発見し、アングラー、フラッシャーとともに攻撃した。3時14分にフラッシャーがタンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)を撃沈したとほぼ同時に、クレヴァルは安芸丸(日本郵船、11,409トン)の左舷に魚雷1本を命中させ、3分後には東山丸(大阪商船、8,666トン)にも魚雷を命中させた。クレヴァルは明け方の5時30分ごろに安芸丸を目標に再度雷撃し、魚雷3本を命中させてようやく安芸丸を撃沈した。先に魚雷を命中させた東山丸は、正午前にフラッシャーがとどめの魚雷を命中させて撃沈した。2日後の7月28日にも、北緯16度23分 東経119度40分 / 北緯16.383度 東経119.667度 / 16.383; 119.667の地点で白馬山丸(太洋興業、6,641トン)を撃沈した。8月9日、クレヴァルは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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第3、第4の哨戒 1944年4月 - 8月
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「コッド (潜水艦)」の記事における「第3、第4の哨戒 1944年4月 - 8月」の解説
4月6日、コッドは3回目の哨戒でスールー海、南シナ海、ルソン島方面に向かった。5月10日朝、コッドは北緯16度16分 東経119度28分 / 北緯16.267度 東経119.467度 / 16.267; 119.467のマニラ湾口北西海域で、レーダーで輸送船団の接近を探知。観測し続け、ほどなく輸送船と護衛艦総計32隻にも及ぶミ03船団の姿を発見。コッドは船団の中に割って入り、北緯14度50分 東経119度20分 / 北緯14.833度 東経119.333度 / 14.833; 119.333の地点に至った所で前部と後部の発射管から魚雷を計9本発射。後部からの3本の魚雷のうち2本が駆逐艦刈萱に命中して撃沈。前部からの6本の魚雷は笠戸丸級輸送船、阿蘇山丸級輸送船、ぶりすべん丸級輸送船に向けられ、1本が阿蘇山丸級輸送船、すなわち特設運送船昌平丸(三井船舶、7,255トン)に命中してこれを撃沈。他の目標にも1本ずつ命中したと判断された。6月1日、コッドは56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジェームズ・A・"キャディ" アドキンス少佐(アナポリス1926年組)に代わった。 7月3日、コッドは4回目の哨戒で南シナ海、ルソン、ジャワ方面に向かった。7月16日朝、コッドは北緯12度53分 東経119度43分 / 北緯12.883度 東経119.717度 / 12.883; 119.717のカラミアン諸島近海で3隻の輸送船団を発見。北緯12度25分 東経119度19分 / 北緯12.417度 東経119.317度 / 12.417; 119.317の地点に至り、2,000トン級輸送船に対してまず艦首発射管から魚雷を6本発射したが命中せず、艦尾発射管からも魚雷を4本発射したがこれも命中せず、逆に反撃を食らって2基のエンジンに軽度のダメージがあった。コッドは一度はこの船団との接触を失うが、夜に入って再び発見し、日付が7月17日になった直後に北緯10度59分 東経118度17分 / 北緯10.983度 東経118.283度 / 10.983; 118.283の地点で三度目の攻撃を仕掛ける。この攻撃では魚雷を3本発射したが命中せず、近在のレイポン (USS Lapon, SS-260) にこの船団の始末を委ねて攻撃を打ち切った。コッドは西進し、同じ日の夜に北緯12度24分 東経116度32分 / 北緯12.400度 東経116.533度 / 12.400; 116.533の地点で7隻の輸送船団を発見し、魚雷を6本発射して1つの不正確な命中を確認する。カブラ島(英語版)近海、マニラ湾口に引き返し、7月20日未明には北緯14度23分 東経119度41分 / 北緯14.383度 東経119.683度 / 14.383; 119.683の地点で4隻の輸送船団を発見し、5,000トン級輸送船に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。コッドは早くも魚雷が残り1本となったので、一旦ダーウィンに引き返すこととなった。その途中の7月25日、コッドは南緯01度41分 東経126度32分 / 南緯1.683度 東経126.533度 / -1.683; 126.533のスラ諸島(英語版)リフマトラ島近海で3隻の輸送船団を発見。夜に入り、南緯01度06分 東経125度33分 / 南緯1.100度 東経125.550度 / -1.100; 125.550の地点にて輸送船団に対して最後の魚雷を発射したが、命中しなかった。コッドは、補給のため7月29日にダーウィンに寄港し、魚雷、燃料、食料品を搭載して8月1日にブルーフィッシュ (USS Bluefish, SS-222) とともに再出撃した。 8月3日未明、コッドは南緯01度45分 東経126度14分 / 南緯1.750度 東経126.233度 / -1.750; 126.233のマンゴリ島(英語版)近海で特設捕獲網艇星光丸(三光汽船、708トン)を発見し、魚雷を4本発射して3本を命中させて撃沈。8月10日午前には、南緯05度14分 東経121度35分 / 南緯5.233度 東経121.583度 / -5.233; 121.583の地点で特設駆潜艇東石丸(日本海洋漁業、89トン)に対して魚雷を4本発射し、うち3本を命中させて撃沈した。夜には南緯05度43分 東経120度49分 / 南緯5.717度 東経120.817度 / -5.717; 120.817の地点で輸送船第六新生丸(林兼商店、260トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本を命中させるが、沈む気配は見せなかった。日付が8月11日に変わってすぐ、南緯05度37分 東経120度36分 / 南緯5.617度 東経120.600度 / -5.617; 120.600のサラヤル海峡近海で再度の攻撃を行い、魚雷を4本発射して1本を命中させ、第六新生丸は2つの爆発を起こした後沈没していった。8月13日昼ごろ、コッドは南緯05度28分 東経125度08分 / 南緯5.467度 東経125.133度 / -5.467; 125.133の地点で船舶を発見し、浮上して4インチ砲と20ミリ機銃で砲撃して1発の不確実な命中を確認する。相手は戦車揚陸艦のようではあったが、味方が得ていた日本海軍艦船情報に戦車揚陸艦に関する情報はなかったため、その姿をスケッチに描いた後、月夜下での攻撃を期して潜航した。日付変わって8月14日未明、コッドは南緯04度17分 東経126度46分 / 南緯4.283度 東経126.767度 / -4.283; 126.767の地点で、未知の戦車揚陸艦、すなわち第129号輸送艦に対して魚雷を4本発射し、3本を命中させて撃沈した。8月18日にも南緯05度03分 東経121度21分 / 南緯5.050度 東経121.350度 / -5.050; 121.350の地点で、レーダーを使って探知した目標に対して魚雷を4本発射したが、いずれも命中しなかった。8月25日、コッドは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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