日新丸
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日新丸(にっしんまる)は、日本の捕鯨母船。歴史上で日新丸と命名された捕鯨母船は3隻あるほか、第一日新丸と第二日新丸(初代・2代)および第三日新丸と林兼商店(後の大洋捕鯨、大洋漁業、マルハ、現:マルハニチロ)や日本共同捕鯨の持ち船として同名船が多数存在し、「日本の捕鯨の象徴」と呼ばれている[1]。
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日新丸 (初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:36 UTC 版)
「第二日新丸」は川崎造船所で1936年(昭和11年)12月16日に起工。1937年(昭和12年)6月9日に進水し、同年10月6日に竣工した。先に竣工した姉妹船の日新丸は波浪で揺れやすいといった意見があったため、「第二日新丸」では船首楼と後部甲板室を1層追加と船体を大型化して揺れを若干改善。それに伴い船内の配置や設備が変更された。またデリックの能力も日新丸では過大気味であったためか全般的に小さくしている。 竣工後は1937年度南氷洋捕鯨から投入され、それから3年間は南氷洋捕鯨に従事した。 国際情勢の悪化により1941年(昭和16年)度南氷洋捕鯨は中止となり、同年12月2日、「第二日新丸」は海軍に徴用されて海軍一般徴用船となる。徴用直後から翌1942年(昭和17年)12月まで南洋方面への輸送任務に従事。以降は昭南やミリと本土の間での油輸送に従事する。1943年(昭和18年)4月14日、「第二日新丸」は応急タンカー徳和丸(日東汽船、1,943トン)、同日鶴丸(日産汽船、1,946トン)と共に第147船団を編成し、護衛を受けず六連を出港。17日18時13分、「第二日新丸」は北緯23度56分 東経124度19分 / 北緯23.933度 東経124.317度 / 23.933; 124.317の石垣島白保崎南方50海里の海上で浮遊機雷に触れ大破する。機雷の爆発で船体は3つに分かれ、前部と後部が沈没し、一番大きい中央部のみが浮いていた。船団は「第二日進丸」を置き去りにして馬公へ向かい、「第二日進丸」は漂流する。18日6時、救援のため第36号哨戒艇が会合し警戒を受ける。同日17時15分、駆逐艦早苗が来着し、第36号哨戒艇は早苗に「第二日進丸」の警戒を任せ、第252船団の護衛のため離脱。22日0600、北緯23度25分 東経122度39分 / 北緯23.417度 東経122.650度 / 23.417; 122.650の地点で第39号哨戒艇が来着し、早苗から「第二日進丸」の警戒任務を引き継ぎ、早苗は基隆に向かった。23日朝、北緯23度48分 東経122度42分 / 北緯23.800度 東経122.700度 / 23.800; 122.700の与那国島南方沖で、2隻は米潜シーウルフ(USS Seawolf, SS-197)に発見される。シーウルフは第39号哨戒艇を雷撃し、同艦は被雷沈没した。シーウルフは最後に残った魚雷を「第二日新丸」に向けて発射し、命中はしたものの不発だった。同日、基隆から早苗が来着し第39号哨戒艇の生存者救助と「第二日新丸」の警戒を行う。24日18時、駆逐艦帆風が来着し、早苗は任務を引き継ぎ高雄へ向かった。25日8時、救難船兼曳船の立神が到着し、「第二日新丸」は同艦に曳航される。25日、高潮の際に立神と翔鳳丸の2隻で浅瀬に座礁させられる。その後離礁され、28日に立神に曳航されて基隆に到着。11月30日に廃船となった。触雷時船員41名戦死。
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日新丸 (2代)
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1951年(昭和26年)9月30日、川崎造船所にて竣工。竣工と同時にSCAJAPによりSCAJAP-N132の管理番号を与えられた。 1971年(昭和46年)に鯨油タンカーに改造。 1973年(昭和48年)4月、中華人民共和国の企業に売却。以降の消息は不明だが、1981年(昭和56年)時点では現役だった。
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日新丸 (3代)
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元々は日本水産がアメリカ合衆国からの商業捕鯨撤退の交換条件として出された遠洋漁業に使用するために日立造船因島工場で建造され、1987年(昭和62年)12月に竣工したトロール船筑前丸。しかしアメリカはパックウッド・マグナソン法を制定し、代替の遠洋漁業の認可さえも取り消したため、行き場を失っていた。そこで、第三日新丸の代替として日立造船因島工場で捕鯨母船に改造し、日新丸に改名した。これまでの捕鯨母船と比べるとかなり小型である。1987年(昭和62年)から2019年(令和元年)まで、毎年日本鯨類研究所に傭船され、調査捕鯨の調査母船として運用された。2019年7月の日本の商業捕鯨再開以降は、沖合水域での母船式捕鯨の母船として運用されている。 船主は日本水産のままだったが、2005年(平成17年)に共同船舶に売却された。
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