ふくだ‐とくぞう〔‐トクザウ〕【福田徳三】
福田 徳三 (ふくだ とくぞう)
1874〜1930 (明治7年〜昭和5年) |
【経済学者】 日本経済学の草分け。資本主義国家での福祉論でも先駆的役割。 |
明治末?昭和前期の経済学者。東京都出身。東京高等商業卒。1898年(明治31)ドイツに留学、学位論文「日本経済史論」はヨーロッパ語圏初の本格的な日本研究として有名。帰国後、母校東京高等商業学校および慶応義塾で講義。第一次大戦末期には吉野作造とともに黎明会を組織。戦後はマルクス主義に対し批判的立場を明確にし、民本主義、自由主義に立ちながら、政府による社会・労働問題の解決を提唱。福祉国家論の先駆者と評される。 |
年(和暦) | ||
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 | 2才 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 | 3才 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 | 3才 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 | 8才 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 | 9才 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 | 15才 |
●1894年 (明治27年) | ■日清戦争 | 20才 |
●1903年 (明治36年) | ■江戸開府300年 | 29才 |
●1904年 (明治37年) | ■日露戦争 | 30才 |
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 33才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 36才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 44才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 49才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 54才 |
・山田 美妙 | 1868年〜1910年 (明治元年〜明治43年) | +6 |
・川上 貞奴 | 1871年〜1946年 (明治4年〜昭和21年) | +3 |
・樋口 一葉 | 1872年〜1896年 (明治5年〜明治29年) | +2 |
・上田 敏 | 1874年〜1916年 (明治7年〜大正5年) | 0 |
・長谷川 如是閑 | 1875年〜1969年 (明治8年〜昭和44年) | -1 |
・荒木 貞夫 | 1877年〜1966年 (明治10年〜昭和41年) | -3 |
・寺田 寅彦 | 1878年〜1935年 (明治11年〜昭和10年) | -4 |
・大河内 正敏 | 1878年〜1952年 (明治11年〜昭和27年) | -4 |
・吉田 茂 | 1878年〜1967年 (明治11年〜昭和42年) | -4 |
・有島 武郎 | 1878年〜1923年 (明治11年〜大正12年) | -4 |
・鏑木 清方 | 1878年〜1972年 (明治11年〜昭和47年) | -4 |
・永井 荷風 | 1879年〜1959年 (明治12年〜昭和34年) | -5 |
・大正天皇 | 1879年〜1926年 (明治12年〜昭和元年) | -5 |
・市川 左団次二世 | 1880年〜1940年 (明治13年〜昭和15年) | -6 |
福田徳三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 22:13 UTC 版)
福田 徳三(ふくだ とくぞう、1874年(明治7年)12月2日 - 1930年(昭和5年)5月8日)は、日本の経済学を開拓した経済学者。社会政策学派、新歴史学派として経済理論、経済史などを導入した。東京商科大学(現・一橋大学)教授、慶應義塾教授、フランス学士院文科部外国会員等を歴任。レジオンドヌール勲章受章。
- ^ a b 『東京朝日新聞』 1930年5月9日付夕刊2面
- ^ 『高等商業学校一覧 従明治27年至明治28年』高等商業学校、1895年、p.100
- ^ 『高等商業学校一覧 従明治31年至明治32年』高等商業学校、1898年、p.130
- ^ 『官報』第6566号、明治38年5月23日、p.879
- ^ 『官報』第2902号、大正11年4月8日。
- ^ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、56頁。
- ^ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、54頁。
- ^ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、61頁。
- ^ a b 麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、245頁。
- ^ a b 田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、176頁。
- ^ 田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、178-179頁。
- ^ 田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、179頁。
- ^ a b c d e f 李萬烈 (2005年6月). “近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 250. オリジナルの2015年9月8日時点におけるアーカイブ。
「福田 徳三」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社福田製薬の総務部の阿部と申します。
- 福田さんの家へちょっとよって行こう。
- 彼は福田派に属していました。
- 福田教授はバイオテクノロジーの分野で優れた業績をあげている.
- 福田康(やす)夫(お)内閣官房長官は5月7日の記者会見で辞任を表明した。
- 福田氏を含む7人の閣僚が,義務づけられている国民年金の保険料を納めていなかったと認めた。
- 4月23日に,福田氏は60歳の時点で保険料を支払っていたと述べた。
- その後4月28日には,福田氏は3年1か月間保険料を支払っていなかったことを認めた。
- 5月7日に発売された週刊誌は,福田氏が実際は5年8か月間保険料を納めていなかったと報じた。
- これは福田氏が石油会社を退職した後,衆議院議員になる前の13年間のことだった。
- 福田氏は自分が国民の政治への信頼を弱めたと認めている。
- 福田首相が拉(ら)致(ち)被害者家族と会談
- 10月26日,福田康(やす)夫(お)首相は北朝鮮によって拉(ら)致(ち)された日本人の家族と首相として初めて面会した。
- 面会で,福田首相は被害者家族との関係を改善したいと強調し,「私はかつて対話を重視しすぎると非難された。しかし,この問題についてみなさんを本当に助けたいと思っている。」と話した。
- 当時の官房長官だった福田氏は,拉致被害者のうち一部はすでに死亡したという北朝鮮のメッセージを家族に伝えた。
- 福田氏は対話重視の姿勢を続け,このことが被害者家族の不信を招いた。
- 被害者家族の代表である横田滋(しげる)さんは,福田首相との面会後に「これほど長いこう着状態を経て,事態が好転することを期待している。」と話した。
- 被害者家族のもう1人の代表である飯(いい)塚(づか)繁(しげ)雄(お)さんは,福田首相がこの問題の追求にそれほど熱心であるように感じられなかったと話した。
- 福田首相が辞意を表明
- 9月1日,福田康(やす)夫(お)首相が記者会見を開き,突然辞意を表明した。
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