よしの‐さくぞう〔‐サクザウ〕【吉野作造】
よしのさくぞう 【吉野作造】
吉野作造 よしの さくぞう
宮城生まれ。政治学者。37年(1904)東京帝大政治学科卒業。42年(1909)東京帝大助教授に就任後、大正3年(1914)教授に昇任。この年から『中央公論』に次々と政治評論を発表した。特に5年(1916)1月号の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」では、デモクラシーに「民本主義」の訳語を与え、普通選挙法の施行と政党政治の実現を主張するなど、大正デモクラシー運動の代表的な論客となった。また、明治文化研究会を組織し、明治文化史研究にも貢献した。
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吉野作造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 22:39 UTC 版)
吉野 作造(よしの さくぞう 1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男、袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した[2]。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。
- ^ 堀勇良『日本近代建築人名総覧』中央公論新社、2021年、869頁。
- ^ 『官報』第1448号、大正6年5月31日、p.705
- ^ 田澤晴子 2006年 1-3ページ
- ^ 田澤晴子 2006年 10-12ページ
- ^ a b 田澤晴子 2006年 17ページ
- ^ 『仙台一高六十年史』宮城県立仙台第一高等学校編、宮城縣立仙台第一高等学校同窓会、昭和31年(1956年)、43頁
- ^ 田澤晴子 2006年 20ページ
- ^ 田澤晴子 2006年 21ページ
- ^ 吉野作蔵作・和歌4首(所収『如蘭會雜誌』明治28年(1895年)、14頁)
- ^ 受浸は、数日間学業を犠牲にして考えた末の行動であった。年来の「自分の意志の弱き」性格を克服し、信仰によって強い意志を持ち人生に処する指針を得ることを目的としていた。田澤晴子 2006年 33-34ページ
- ^ 田澤晴子 2006年 33-34ページ
- ^ 田澤晴子 2006年 47ページ
- ^ 吉野作造記念館デジタルギャラリー、A-1-020
- ^ 吉野作造「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」『新人』10巻3号
- ^ 吉野作造「袁世凱を中心として観たる清国近時の政変」『国家学会雑誌』23巻3号、359頁
- ^ 吉野と同じ東北の二高の出身、寄稿はもとより先輩としてご交際を願いたいと挨拶した。瀧田は総合雑誌の時代を飾る『中央公論』の黄金時代を築き上げた人物である。(田澤晴子 2006年 105ページ)
- ^ 留学の帰途アメリカで千葉豊治から寄贈された「排日問題梗概」を元にしている
- ^ 田澤晴子 2006年 106ページ
- ^ a b 田澤晴子 2006年 107ページ
- ^ 『寶祚萬歳』吉野作蔵(所収『中央公論』大正4年(1915年)、巻頭)
- ^ 故郷古川の中学生たちを集めて講演した時の内容に基づく
- ^ 『官報』第949号、大正4年9月30日、p.587.
- ^ 3月号に上杉慎吉が「我が憲政の根本義」を発表、4月号に吉野が「予の憲政論の批評を読む」を発表し誌上で論争になった。
- ^ 『婦人公論』大正8年(1919年)1月、13頁。
- ^ 田澤晴子 2006年 191ページ
- ^ 『帝国陸軍の栄光と転落』(別宮暖朗、文春新書、2010年4月20日) P162 ~ P168、P176
- ^ シンポジウム「宮崎滔天と中国人留学生」たち~戦前期早稲田大学に学んだ中国人留学生(紀旭峰 早稲田大学主任研究員)
- ^ 『吉野作造-人世に逆境はない』 284-287頁
- ^ 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年、130-131頁
- ^ 吉野作造記念館条例|大崎市
- ^ a b c 『ビッグ・リトル・ノブ』23頁。
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