東京高等商業学校時代(1895年-1898年)
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1895年(明治28年)文部参事官に昇進した小山は東京高等商業学校(後の東京商科大学、現一橋大学)の校長に就任し、すぐさま学校改革に着手する。商業道徳科を設けて近代商人の職業倫理を徹底し、商学だけでなく経済学と法学と合わせて商業教育の中核とした。また、現在の大学に相当する専攻部を設置。国内外から専門家・実務家を招聘して商業教育の充実を図ると共に、若手を海外に留学させて人材の育成を図った。その際の留学者の中には、後に商学を権威ある学問へと昇華させた福田徳三、佐野善作、関一、志田鉀太郎、津村秀松、神田乃武らがいる。津村秀松は1904年に小山の娘・久子と結婚し、後に実業界に進出し、大阪鉄工所(現日立造船)で社長を務める。また、高等商業教育における外国語の重要性を説き、東京高等商業学校の附属機関として外国語学校を新設、現在の東京外国語大学の前身となる。また、将来の商業家は必ず工学上の知識が必要になり、工業家は簿記などの商業の知識が必要になるはずとの予想のもと、東京高等工業学校と教授を相互に派遣して授業を行う制度を作った。現在の技術経営 (MOT、Management of Technology)に通じる考え方であった。 僅か3年弱の在任期間ながら、東京高等商業学校が後に東京商科大学(現一橋大学)に昇格する上での基礎を作ったのが小山の学校改革であり、学校の中興の祖とも言われている。小山の改革は外国からも注目を浴び、福田徳三は留学先のミュンヘンからバイゲルの「高等商業学校運動」の該当部分を小山宛に送っている。
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