活発な労働運動
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「カリフォルニア州の歴史」の記事における「活発な労働運動」の解説
カリフォルニア州選出の合衆国上院議員デイビッド・C・ブロデリックは上院での初めての演説で、「合衆国のどこにも、地球の上の何処にもカリフォルニアにおけるほど労働者が誉められ報いを受ける所は無い」と述べた。カリフォルニア州への初期移民は多くの職業で技術を持っており、ある者は労働者が組織化された地域から来ていた。 カリフォルニアの労働者運動は、何十年もの間カリフォルニアで唯一の大都市であり、かってロッキー山脈の西では労働組合主義の中心だったサンフランシスコで始まった。ロサンゼルスは半世紀にわたって労働組合への加入が任意という地盤を維持し、その後北からの組合と協業してカリフォルニアを「組合の州」にした。サンフランシスコが比較的孤立した位置にあったので、熟練労働者達は東部の同様な者達が出来なかった要求を突きつけることができた。印刷工が1850年に先ず組織化を始め、駅馬車の御者、荷馬車の御者、はしけの船頭、索具装着者および港湾作業員が1851年に、パン職人とれんが積み職人が1852年に、コーキング職人、大工、左官、れんが製造者、鍛冶屋および造船工が1853年に、さらに1856年には音楽家が組織化された。これら全ての動きは安定するまで多様な起ち上げ方をしたが、より良い給与や労働条件を勝ち取り、州の労働法を制定させる長い動きを始めた。1850年から1870年の間、賃金の支払い条件、機械工の先取特権および1日8時間労働の法制化が進んだ。 19世紀後半、サンフランシスコの労働者はアメリカのどの都市よりも1日8時間労働を享受できていたと言われた。1864年の型職人とボイラー製造者のストライキは、新しく形成された鉄工業雇用者協会が、ストライキ参加者の要求を認めた雇用者に1日千ドルの科料を取ると脅し、全国のストライキ破りに電報を打ったことに反対するために呼びかけられた。サンフランシスコで最初の中央労働者組織であるサンフランシスコ労働組合はパナマにおける船一杯のストライキ破りと会うために代表を派遣し、彼等を教育した。彼等は組合員としてサンフランシスコに到着した。 1865年に南北戦争が終わると、カリフォルニア州は急速に成長を続けた。個人の坑夫達はほとんど大規模な会社による鉱業に置き換えられた。鉄道の建設が始まり、鉄道会社も鉱山会社も多くの労働者を雇用し始めた。決定的な出来事は1869年の大陸横断鉄道開通だった。シカゴからサンフランシスコまで鉄道なら6日間で旅行でき、船の6ヶ月とは比べものにならなかった。カリフォルニア労働者の比較的保護された時代は鉄道の開通と共に終わった。その後の数十年間、労働者は中国人を抑圧し、政治家は反中国人の法制化を進めた。 奴隷の輸入、いわゆる「契約」労働者については坑夫や都市労働者の闘争の結果、1852年の法律で違法とされた。 州全体では最初の連合労働者組織は州機械工協議会であり、1867年にできた雇用者の「10時間同盟」に対抗して1日8時間労働を推し進めた。この協議会はアメリカでも最初の全国的労働組合組織である全国労働組合と提携した。1872年までにサンフランシスコの工場労働者は半数が中国人となり、白人労働者よりも遙かに低い賃金で働かされた。サンフランシスコの著名労働指導者のデニス・カーニーのスローガンは「中国人よ、出て行け」だった。カーニーは1877年に登場し1群の自警団を率いて市中を彷徨し、中国人を殴り、その仕事を破壊した。 西海岸の海員は2回ほど組合を結成しようとしたがその度に失敗した。1875年、海員保護協会が設立され、賃金や船上での労働条件の闘争を始めた。この動きにサンフランシスコ・ポストの編集者ヘンリー・ジョージが加わった。残酷な船長に対抗する法制化の闘争と船員の3分の2はアメリカ人であるべきという要求が提案され、この動きは30年間、アンドリュー・フルセス、1908年以後は太平洋海員組合、さらにアメリカ国際海員組合によって遂行された。海岸海員ジャーナルが1887年に創刊され、長い間カリフォルニアにおける最も重要な労働者用雑誌になった。 現在、海員の組織は太平洋海事連合に引き継がれている。
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