批判と展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:27 UTC 版)
場所を人の主体的経験の舞台として素朴に解釈する人文主義地理学的場所論に対しては、様々な批判があった。批判者の多くは、人文主義地理学者の場所の定義がある種の本質主義に基づいていていることに問題意識を持った。デレク・グレゴリーは、主体の行為を拘束していく構造との相互貫入性・相互介在性というものをマテリアルに解釈しなければ、社会の中で生きる我々の活動の現実を捉えることはできないと主張した。1980年代以降のイギリスでは、地理学に社会理論や政治経済学の議論を取り込み、場所を「様々の諸力の競合するアリーナ」として扱う動きが生まれた。 人文主義地理学者に対しては、場所概念の本質性と、それを形づくる人間の主体的経験をあまりにも強調するゆえに、場所を所与のものと捉え、その価値付けの文脈下にある社会構造を無視しているとする批判もなされた。たとえば人文主義地理学者は場所やその意味を考える上で、「親密な場所」「個人および地域社会の一員としてのアイデンティティの基礎となる場所」の例として住まいを挙げたが、フェミニスト地理学(英語版)の研究者であるジリアン・ローズ(英語版)は特に女性にとって家が抑圧の場として機能してきたことを踏まえた上で、人文主義地理学者の「人間中心主義」的アプローチが暗黙のうちに男性を前提としているものであることを示した。また、マルクス主義地理学(英語版)者のデヴィッド・ハーヴェイは、場所がグローバルなレベルでの経済空間の再編等のあらゆる脅威にさらされる一方で、他方では流動化する資本の力に抵抗するための排他的な場所のアイデンティティ形成が促進されることを論じつつ、強者の価値観に基づいた「場所」が守られた結果弱者が排斥され、社会の分断が推し進められてしまうこと、伝統の力に訴える場所の運動が、フレキシブルな資本主義がもたらす断片化や場所の美学に包摂されてしまうことを危惧する。ティム・クレスウェル(英語版)はニューヨークのグラフィティについての行政やメディアの言説を事例に、人・物・実践は、特定の場所に結び付けられており、この結び付きから離れた「場違い(out of place)」な行為が「逸脱」とみなされることを示した。 ナイジェル・スリフト(英語版)は非表象理論を提唱し、出来事や実践のような世界との具体的な関係として捉え、実践によって常に作り変えられるものとして理解する必要を求めている。ドリーン・マッシーも同様に開放性と変化に特徴付けられる場所の理解を支持し、かつそれは場所の重要性・固有性を否定するものではなく、より大きな、またよりローカルな社会関係が混ざり合う焦点として特有なものであり続けると論じた。マッシーはまた、『空間のために(For Space)』において、衝突の不可避性を含む、異種混淆的な存在の間の共編成こそが場所にとって特別なことであると論じ、グローバル化のなかでローカルな「場所」が否定の場や、侵略/差異から撤退する試みの場となっていることに警鐘を鳴らした。
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批判と展開
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上記のように、会三帰一は、『法華経』を最高と定めた天台宗によって創始され、それが日蓮宗各派でも採用された解釈であるが、これには異論もあった。 まず、法相宗は『解深密経』などを根拠として五性各別を説き、そもそも衆生には差別があり誰でもがすぐに成仏できるものではないとして天台宗と論争になった。いわゆる徳一と最澄の三一権実諍論がそれである。天台宗では最澄の弟子が、最澄が徳一の主張をことごとく論破したと宣言して論争を打ち切ったとされる。 なお、法華各宗では『法華経』で会三帰一を説いているとするが、仏教学においては法華経無内容説という学説的な主張に加え、また『法華経』が「三乗を会して一乗に帰す」という目標を示してはいるものの、三乗の差別ある者たちがどうやって一乗の教えに平等に帰すことができるのかが明らかには説かれておらず、その根拠に乏しい、という指摘もある。またこれに従って、『法華経』に対し『涅槃経』の方が、三乗の同一仏性の常住を説いて会三帰一の理論的根拠を説いているという指摘もなされている(「仏教布教体系」など)。[要出典]
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批判と展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:45 UTC 版)
一方で1980年代以降、マルヴィに対する批判を通じて「男性のまなざし」論をさらに展開させる動きも現れるようになった。 まず現れたのは、マルヴィが「観客」の具体的内容として、欧米の中産階級に属する白人しか想定していないという批判である。 アメリカの映画研究者ジェーン・ゲインズは論文「白人の特権とまなざしの関係」(1988)において、映画の中の女性へ観客が向けるまなざしの中にも人種に応じたヒエラルキーが存在することを鋭く突き、「男性のまなざし」といっても、黒人男性の観客がスクリーン上の白人女性に対して向ける視線は、白人男性のそれとは根本的に異なると指摘した。 実際にアメリカ社会では人種ごとに上映館を区別する慣行が長く行われており、例えばヒッチコック『めまい』の公開当時、黒人は白人と席を並べて同じ映画を見ることはできなかった。そうした「観客」内部の差異や権力関係をマルヴィは無視している、という批判である。同様の批判は、さらに黒人女性の観客に注目するベル・フックスからも行われた。 またカナダの研究者コリン・クランパーは、マルヴィが単一の普遍的制度のように扱っている「家父長制」という概念も、実際には歴史的にこまかく変遷しており、国・文化ごとにその意味は大きく異なると批判した。さらにクランパーは、映画の快楽の中には被支配の立場に女性観客が自らを同一化する「マゾヒスティックな快楽」がひそんでいることをマルヴィは見落としている、とも指摘している。 ミランダ・シャーウィンはこの点をさらに発展させ、『危険な情事』(1987) や『氷の微笑』(1992) といった作品においては、「男性のまなざし」はマルヴィが考えたようなサディスティックな支配の欲望だけではなく、嗜虐的な快感をも含み込んでおり、男性のアイデンティティも一枚岩ではないと論じた。 さらに現在の映画研究で大きな影響力をもつようになったクィア理論の視点からも、マルヴィの議論はエロティックな欲望を抱く観客に「異性愛者」のみを想定しているとして「まなざし」論の修正が求められるようになったほか、マルヴィが「受動的」と断じた女性観客の役割についても、ファン雑誌や同人誌の調査をもとに、アメリカの女性の映画ファンが積極的な映画読解を行っていたことが報告されるようになった。 このように「男性のまなざし」論は、マルヴィの議論の評価と批判を手がかりに、現在でもさまざまな方向で更新が模索されている。 マルヴィ自身は現在に至るまで自らの立場を大きく修正していないが、批判に応えるかたちで発表された論考では、家父長制的な枠組みにとらわれない新しい女性の観客が登場し、それによって新しい映画が現れることへの期待感を語っている。メディア研究者のブレンダ・クーパーは映画『テルマ&ルイーズ』(1991)を取り上げ、この作品が家父長制を嘲笑して男性の欲望的な視線を解体する新しいフェミニスト作品だと論じているが、ここにも同様の期待感が現れている。
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