所蔵文化財など
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「如意寺 (豊田市)」の記事における「所蔵文化財など」の解説
絵画 親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)三幅南北朝時代(一説に1354年(文和3年))の製作、掛幅装・絹本着色、縦149.0センチメートル・横81.5センチメートル。 『絹本著色親鸞上人絵伝』として国指定重要文化財(1967年(昭和42年)6月15日)。 真宗では、親鸞の生涯の行状が覚如と絵師の浄賀によって1295年(永仁3年)に図様化されたものを絵伝と呼び、それが長らく描き継がれているが、全国の真宗寺院に広く流布している定形化された四幅本とは異なり、本図のような三幅本の形態は絵伝の中でも古い部類に属し、かつ完成度の高い絵画作品といわれる。親鸞の生誕から荼毘までの20~21場面からなり、それが3幅に分けられている。妙源寺(愛知県岡崎市大和町)に伝わる絵伝は本図に先行する鎌倉時代のもので、本図はおおむねこの妙源寺本を踏襲しているが、笹竹にまたがって遊ぶ範宴(幼児期の親鸞)の様子などは本図独特の描写とされる。 方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)一幅1518年(永正15年)頃の製作、掛幅装・絹本着色、縦93.6センチメートル・横38.9センチメートル。 本願寺第9世実如からの下付物で、寺院が形成される以前の本願寺門末道場で本尊として礼拝されたものである。蓮台に立ちながら正面を向き、来迎印および摂取不捨印を結ぶ阿弥陀如来の像で、頭部の1点より48条の光明が放たれている。 光明本尊(こうみょうほんぞん)一幅南北朝時代の製作、掛幅装・絹本着色、縦122.3センチメートル・横80.6センチメートル。 光明九字名号(こうみょうくじみょうごう)一幅室町時代の製作、掛幅装・紙本着色、縦162.6センチメートル・横46.0センチメートル。 真宗では、教団が形成される以前の門流や教団の中で、6文字(南無阿弥陀仏)・8文字(南无不可思議光仏)・9文字・10文字(帰命盡十方无㝵光如来)の名号が礼拝の対象とされているが、本図もその一例で、蓮台の上に金泥籠文字の「南无不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」が乗り、42条の光明を放つ。『末寺触下絵讃之控』(勝鬘寺蔵)には本図を開基源海が親鸞より賜ったものとする記述があるが、製作年代を鎌倉時代までさかのぼらせるのは難しいとみられる。 聖徳太子孝養像(しょうとくたいしこうようぞう)1758年(宝暦8年)製作、東本願寺第18世従如からの下付物という。 親鸞像(しんらんぞう)1679年(延宝7年) - 1700年(元禄13年)の間の製作、東本願寺第16世一如からの下付物という。 親鸞像(しんらんぞう)画中墨書に承久元年(1219年)とあるが、江戸時代の製作と推定される。 顕如像(けんにょぞう)1605年(慶長10年)製作、東本願寺第12世教如からの下付物という。 二河白道図(にがびゃくどうず)三幅図で、近代の製作と推定される。 彫刻 源海上人坐像(げんかいしょうにんざぞう)南北朝時代の製作、像高39センチメートル、横42センチメートル。『木造源海上人坐像』として豊田市指定文化財(彫刻)(1977年(昭和52年)3月18日)。 像主は本寺の開基である源海で、本人の自作と伝わる。桧材寄木造、玉眼、黒漆塗りであったものが剥落が激しく現状はおおむね素地表しとなっている。法衣の上に袈裟をかけ、顔は正面向き、両手は合掌、下半身は結跏趺坐する。本像の材料に潤沢な樹脂分と特有の粘りがある三河桧の使用が考えられることから、当寺が武蔵国から三河国に移転した1325年(正中2年)以降の南北朝時代に製作されたものとみられる。なお、2012年(平成24年)の修復時に玉眼の裏から紙片が見つかり、1585年(天正13年)に修理が行われたことが判明している。 文書 大般若経(だいはんにゃきょう)豊田市指定文化財(書跡・典籍・文書)(1976年(昭和51年)3月3日)。 明治時代に当寺の住職であった源理によって収集されたもので、巻275・巻344の2巻が菟足神社(愛知県豊川市小坂井町字宮脇)が所蔵する大般若経(国指定重要文化財)の僚巻、巻89・巻341・巻594の3巻が金蓮寺(愛知県西尾市吉良町饗場)が所蔵する写経大般若経(西尾市指定文化財)の僚巻であるという。 『親鸞聖人絵伝 第一幅』 『親鸞聖人絵伝 第二幅』 『親鸞聖人絵伝 第三幅』 『方便法身尊像』 『光明本尊』 『光明九字名号』
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