戦いに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 14:29 UTC 版)
1331年(元弘元年、元徳3年)、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚すると、天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した(元弘の乱)。鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰された。一方、正成は10月の赤坂城(下赤坂城)の陥落後、一時姿を消していた。 1332年(元弘2年、正慶元年)4月、正成は赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させることに成功した。そして、湯浅を味方につけた楠木軍は和泉・河内の両国を瞬く間に制圧した。 北条高時は畿内において反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に関東8ヶ国の大名からなる30万余騎の追討軍を派遣した。北条一族の主な武将は阿蘇治時、名越宗教、大仏貞直、大仏宣政、伊具有政、大仏家時らであった。それ以外は、長崎高貞、長崎師宗、千葉貞胤、千葉胤貞、工藤高景、二階堂貞藤、佐々木清高、小山高朝、結城親朝らである。また、河野通盛が四国勢を率いて大船300艘で尼崎に到着したのをはじめ、周防、長門、甲斐、信濃や北陸道7ヶ国の軍勢も上洛した。 正成は赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙し、上赤坂城には平野将監、楠木正季以下300兵を守備隊とした。 翌1333年(元弘3年、正慶2年)1月晦日、幕府軍は軍を三手に分け、吉野、金剛山、そして赤坂に向かわせた。吉野には二階堂貞藤が、金剛山には大仏家時が、赤坂には阿蘇治時がそれぞれ向かった。
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戦いに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:42 UTC 版)
この年の初め、2月に足利尊氏は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに豊島河原合戦で敗れて、京都を追われ九州へ落ち延びていた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、公家たちの失笑を買うだけだった(『梅松論』)。後醍醐天皇は、3月に義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。 義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進した。 尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、5月13日に兵庫(現・兵庫県神戸市兵庫区)まで兵を退いて軍の立て直しを図った。 足利軍が京に迫り、義貞から兵庫へ退却したとの早馬がもたらされると、後醍醐天皇は正成を呼び出した。正成が京都から撤退して足利軍を京都に引き入れた後に新田軍・楠木軍で挟撃する作戦を主張したのに対し、公家の坊門清忠はたびたびの動座(天皇の行在所への移動)は体面が悪いとしてこれを退けた。後醍醐天皇は坊門清忠の意見を受け入れ、正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、5月16日に正成は援軍として兵庫に下向した。 24日、正成は兵庫に到着し、義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した。その夜、義貞と正成は酌み交わし、互いに胸の内を吐露した。義貞が官軍総大将としての辛く苦しい胸の内を明かすと、正成は義貞が武徳によって鎌倉幕府を滅ぼしたことや尊氏を九州に追いやったことなどを褒めたたえ、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時にたしなめた。
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戦いに至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 07:42 UTC 版)
鎌倉時代末期の1324年、後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕を計画したが、陰謀が発覚し失敗した(正中の変)。 7年後、1331年(元弘元年、元徳3年)に再び倒幕計画を日野俊基に進めさせたが、4月に陰謀が再度発覚した(元弘の変)。8月に後醍醐天皇は宮中から姿をくらまし、笠置山で兵を挙げ、これに楠木正成が呼応し赤坂城で挙兵した。 幕府軍は、後醍醐天皇が挙兵した笠置山を諸国御家人の軍勢を招集してこれを包囲、天皇方は抗禦したが約1ヵ月後に陥落する(笠置山の戦い)。このとき、後醍醐天皇や尊良親王、宗良親王などは捕らえられたが、護良親王は赤坂城へと逃げた。
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