千早城の戦いとは? わかりやすく解説

千早城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 11:38 UTC 版)

千早城の戦い(ちはやじょうのたたかい)は、1333年(元弘3年、正慶2年)に後醍醐天皇倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦千早城上赤坂城下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。


注釈

  1. ^ 『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』による[2][3]
  2. ^ この「水資源の保全」について、黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』で「昨今の東京都の水道局も手本にすべき」と書いている(中公文庫改版 ISBN 978-4122044661、506-507p)。底本が発行された1965年当時の上水道の状況(渇水・断水など)がうかがわれる。

原文

  1. ^ a b 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[1]

出典

  1. ^ 藤田 1938, p. 128.
  2. ^ a b 藤田 1938, p. 148.
  3. ^ a b 長谷川 1994, p. 478.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 新井 2011, pp. 123–124.
  5. ^ [[#CITEREF|]].
  6. ^ a b 『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」
  7. ^ a b c d e 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」
  8. ^ 千葉氏: 鎌倉・南北朝編、251頁
  9. ^ 高石市史, 第 2 巻、552頁
  10. ^ a b c d e f 『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」
  11. ^ 『日本の歷史: 蒙古襲来』、510頁
  12. ^ a b 『太平記』巻七「吉野城軍事」
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『太平記』巻七「千剣破城軍事」
  14. ^ 『太平記』巻七「先帝船上臨幸事」
  15. ^ a b c d e 『太平記』巻九「千葉屋城寄手敗北事」
  16. ^ 峰岸・35-36頁
  17. ^ 山本・33頁
  18. ^ 長谷川 1994, p. 337.
  19. ^ 小学館『赤坂・千早城の戦い』
  20. ^ 新井 2011, pp. 133–134.
  21. ^ 『野長瀬家系図』
  22. ^ 呉座 2014, pp. 97–102.



千早城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)

元弘の乱」の記事における「千早城の戦い」の解説

詳細は「上赤坂城の戦い」および「千早城の戦い」を参照 護良親王楠木正成両者各々潜伏し機会伺っていた。元弘2年/正慶元年1332年)、楠木正成河内国金剛山千早城挙兵し同月護良親王吉野挙兵して倒幕令旨発した。正成は12月赤坂城奪回し元弘3年/正慶2年1333年)には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。 これに対し幕府は再び大仏家時・大仏高直兄弟名越宗教らが率い大軍差し向けた金剛山系に籠城する楠木勢に対し先ず幕府軍は正成の悪党仲間平野将監入道・正成の弟楠木正季らが守る上赤坂城向かった上赤坂城守り堅く幕府軍苦戦するが、城の水源絶ち平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王敗れた。 これにより、正成がわずかな軍勢篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍翻弄した。幕府軍水源絶とうとしたが、千早城では城中水源確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部打って出包囲方を奇襲し軍旗奪って城壁掲げ嘲笑してみせるなど、90日間わたって幕府大軍相手戦い抜いた幕府軍千早城大軍貼り付けしながら落とせずにいる、との報は全国伝わり各地倒幕機運触発することとなった

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千早城の戦い

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楠木正成」の記事における「千早城の戦い」の解説

詳細は「千早城の戦い」を参照 やがて、北条高時畿内で反幕府勢力台頭していることを知り9月20日30万余騎の追討軍を東国から派遣した。これに対し、正成は河内国赤坂城詰めの城として、千早城をその背後山上築いた。正成は金剛山一帯点々要塞築きその総指揮所として千早城活用し千早城上赤坂城下赤坂城の3城を以て幕府立ち向かうことにした。 元弘3年/正慶2年1333年2月以降、正成は赤坂城金剛山中腹築いた千早城幕府大軍対峙し、ゲリラ戦法落石攻撃火計などを駆使して幕府大軍相手一歩引かず奮戦した(千早城の戦い)。正成は後醍醐天皇隠岐島流罪となっている間、大和国奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力果敢に立ち向かい同年2月後醍醐天皇隠岐脱出した幕府軍勢千早城釘付けになっている間、正成らの活躍触発され各地倒幕機運広がり赤松円心ら反幕勢力挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅攻め落とし、京から幕府勢力掃滅された。5月10日六波羅陥落の報が千早城包囲していた幕府軍にも伝わり包囲軍は撤退し楠木軍の勝利終わった。 そして、5月22日新田義貞鎌倉幕府滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6貫もの軍資金をわずか5日納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏殺害投獄し反旗を翻したのである。 正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日兵庫出迎え道中警護についた天皇兵庫出発して以降、正成はその行列先陣務めその後陣には畿内軍勢7千騎を引き連れていた。

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