赤坂城の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:29 UTC 版)
2月2日午の刻(午前12時頃)、まずは赤坂城(上赤坂城)で矢合わせによって戦いが始まり、幕府方の人見光行(人見四郎入道恩阿)と本間資貞、その息子本間資忠が初戦で討ち死にしている。幕府は13日まで攻撃を仕掛けたが、城を守っていた平野将監らはかなり善戦し、戦いのたびに死傷者が5、600人は出る有様だった。 そこで、播磨の吉川八郎が阿蘇治時に、「いたずらに攻撃を続けても城は落ちないでしょう。楠木勢は和泉・河内を制圧していたので簡単に兵糧が尽きるとは考えらず、城の南側の山奥から城内に水を引き込んでいる可能性があるのでそれを潰すべきです」、と献策した。幕府軍が水の手を切ったため、城兵らは渇きに苦しみ、同年2月27日に平野将監以下将兵282人は降伏した。この間、楠木正季は千早城に引いている。降伏した城兵らは六波羅に送られたのち、全員が六条河原で処刑され、その首は獄門にかけられた。『太平記』では、降伏した者が処刑されたことを伝え聞いた吉野や金剛山(千早城)の兵らは獅子の如く怒り狂い、誰一人降伏しようとは考えなくなった、と記している 赤坂城での戦いのさなか、2月23日に楠木正成は金剛寺へ書状を送っていた。内容は鎌倉幕府軍が寺内に乱入して、城郭を構えるという風評があるので、怠りなく防備し、団結して戦ってほしいとし、護良親王の令旨に従って関東調伏の祈禱に励む、つまり戦勝祈願するように丁重に依頼している。金剛寺は千早城から西へ約10kmに位置し、楠木正成とのかかわりが深く南北朝時代には南朝方の勅願寺として重要な拠点となっていた。 2月18日、幕府軍は吉野の吉野城(金峰山城とも)を攻めてこれを陥落させた。だが、護良親王は村上義光が身代わりになったこともあって辛くも逃げ延び、千早城へと向かった。一方、吉野城を陥落させた幕府軍も千早城へと向かった。
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