急進派の朝議掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
「八月十八日の政変」の記事における「急進派の朝議掌握」の解説
京都守護職の松平容保が会津藩兵を率いて上洛、着任したのは文久2年12月24日である。一橋慶喜は翌文久3年1月5日に入京し、東本願寺を宿舎とした。山内容堂は1月25日、松平春嶽は2月4日に入京した。10年後の攘夷実行から即今攘夷への転換を強いられた幕府にとっては、彼らの朝廷工作で将軍上洛までに状況を好転させておくことが必要だった。 薩摩からはすでに島津久光に代わって大久保利通が12月20日に入京しており、関白近衛忠煕、青蓮院宮(政変後に還俗して中川宮朝彦親王)、議奏の中山忠能・正親町三条実愛と接触し将軍上洛見合わせの勅命降下を工作していた。この話は進展せず、大久保は容堂・春嶽を通じて幕閣の調整を行い、上洛見合わせの結論を得てから再び京都の工作に入ることとし、1月3日に江戸に下った。しかし、幕府はすでに将軍上洛を布告しており見合わせは難しいという。そこで将軍上洛を1か月延期し、その間に容堂・春嶽が国是を定める朝議を働きかけることになったのである。 だが、朝廷では朝議のあり方が大きく変わっていた。従来の朝議は関白・左大臣・右大臣・内大臣・議奏・武家伝奏・権大納言および青蓮院宮までの参加が一般的だったが、12月9日に新設された国事御用掛には彼らを含む29人が任命され、朝議に参与できる廷臣の範囲が拡大した。そしてこの国事御用掛では三条実美・姉小路公知ら急進派公家の発言力が強く、青蓮院宮や近衛関白、左大臣一条忠香などは早速辞意を漏らす有様だった。 さらに1月22日、儒学者池内大学が暗殺され、切り取られた耳が同26日に中山・正親町三条両議奏の屋敷に投げ込まれるといった状況で、近衛忠煕が23日に関白を辞任して親長州の鷹司輔熙に替わり、中山・正親町三条も27日に辞任に追い込まれた。 1月28日には千種家の雑掌賀川肇が暗殺された。賀川は以前岩倉具視と京都所司代を連絡していた人物で、その左腕は洛北に隠棲する岩倉のもとに届けられ、首は慶喜の宿舎の門前に脅迫状を添えて晒された。攘夷方針での交渉を押し付けられている慶喜は、攘夷実行の期日決定を迫る公家や尊攘志士に対し、将軍が到着してからと逃げ続けていたが、2月11日に長州の久坂玄瑞・寺島忠三郎、肥後の轟武兵衛が鷹司邸を訪れて建白を行い、続いて姉小路ら13人の公家が鷹司関白に迫り、その結果朝廷は三条ら8人を遣わし慶喜に期日の即決を要求した。勅諚とあっては拒み切れず、慶喜は将軍の江戸帰還後20日と回答した。 2月13日、国事御用掛を精選すべしという久坂らの建白に基づき、国事参政4人、国事寄人10人が朝廷に設けられ、急進派公家が独占した。20日には草莽の者でも学習院に出仕させ建言を聴くこととなり、尊攘派の影響力が一段と強まることになった。過激な尊攘派が多数をもって決する朝議は、もはや天皇といえどもその一存で覆すのは困難であった。
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