後漢時代の書物に見られる仏教とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 後漢時代の書物に見られる仏教の意味・解説 

後漢時代の書物に見られる仏教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:33 UTC 版)

仏教のシルクロード伝播」の記事における「後漢時代の書物に見られる仏教」の解説

范曄398年-446年)によって(5世紀に)編纂された『後漢書』には初期中国仏教報告されている。それによれば西暦65年頃に洛陽今日河南省)にある明帝宮廷(今日江蘇省)の彭城にある劉英宮廷両方仏教実践されたという。 『史記』(紀元前109年-紀元前91年張騫中央アジア訪れたことを記録している)と『漢書』(紀元後111年班固により編纂)とのどちらにも仏教インド生まれたことが書かれていない范曄の注に記述されている 張騫は以下のようにしか書いていない: 「この国の気候高温湿潤である。人々は象に乗って戦闘参加する。」 班勇はこの国の人々仏陀崇めていて殺人戦闘行わないことを説明しているが、彼は素晴らし経典高徳なる戒律称賛値する論説指導に関しては何も記録していない。私に関して言えば、ここに私が知っていることを記: この王国中華の地よりもなお栄えている。季節調和し全ての聖なるものはここに由来してここに集まってくる。とても価値のあるものはここから生じてくる。人が思考停止してしまうほど奇異特別な驚くべきことが起こる。この感情考察し、それを暴けば、人は高い天のさらに上に到達することができる。 『後漢書』西域伝天竺国条に中国での仏教起こり概説されている。日南経由して海路でやってきた天竺からの使節について言及し和帝桓帝謝辞表したうえで、本書では劉英明帝の「公式の」歴史に関する最初の「確実な証拠」が総説されている。 頭頂部が光り輝いている金人明帝夢に見たという今なお伝わる伝承存在する明帝顧問団にこの夢について尋ねるとそのうち一人答えた: 「西方仏陀呼ばれる神がございます。その体は16尺(3.7メートルつまり12フィート)、真の黄金色をしているそうです。」 皇帝はその真の教えを見つけるために天竺西北インド)に使節送って仏陀教説調査させた。その後中国仏像仏画現れた。 楚王英当時は漢内部王国であり、劉英41年から71年にかけてこれを統治した)はこの習俗信仰し始めた。それに続いて中国の非常に多く人々この道に引き続いた。さらにその後に、桓帝146年-167年)は聖物に専心し、しばしば仏陀老子供物捧げた人々徐々に[仏教]を受容始め、その数は後に莫大なものとなった第一に中国の歴史文学の中で最初に仏教言及しているのは『後漢書』光武十王列伝劉英条である。それによれば楚王英黄老思想深く関心抱き同時に断食観察してブッダ供物捧げた。」 黄老つまり黄老子とは老子神格化したもので、方士技術者魔術師錬金術師)や仙人超越的な不死の)の技法と結びつけて考えられる。「劉英彼の宮廷にいた帰依者にとって断食供物などの『仏教』の祭り既存様々な道教慣習上のものではなかったと考えられる仏教要素道教要素とのこの奇妙な混合漢代通じて当時仏教特徴であった。」 西暦65年明帝が、死罪問われたものは罪を贖う機会与えられるという布告出した同年楚王英三十巻の絹を贈った明帝布告中で弟を褒め称えていることが伝記中で言及されている。 楚王黄老緻密な言葉を諳んじ、仏陀対す立派な供物恭しく捧げた斎戒断食行って三か月後に、彼は心から誓願立てたどのような(我々の方からの)嫌悪疑念がありえたとしても、彼は(自分の罪を)悔やんだだろうか贖罪(のために彼が献上した絹)を送り返してみよう、それによって伊塞や桑門贅沢な楽しみに資するために。 「この二つサンスクリット単語中国語音訳されたもので、それぞれ在俗信者仏教僧を指」し、仏教用語詳細な知識があることを示している。 西暦70年に、楚王英反乱巻き込まれ死刑判決言い渡されたが、明帝は彼とその廷臣流刑処し丹陽(安徽省)の南に行かせた。その地で楚王英71年自殺図った仏教徒コミュニティ彭城存在し193年頃に将軍笮融巨大な寺院立てたが、「その寺には三千人の僧侶が侍っており、彼らは皆仏典学び読んでいた。」 第二に、范曄『後漢書』では、明帝が「金人仏陀予言的に夢に見たという伝承が「昨今」(5世紀)にまで伝わっていることが言及されている。「天竺国」条に彼の有名な夢に関す記述があるが、本紀たる「顕宗孝明帝紀」にはない。偽史的な文書では、インド派遣され皇帝使節について、彼らが仏僧とともに帰還したことについて、白馬積んで運ばれサンスクリット経典(『四十二章経』を含む)について、そして白馬寺建立について様々な説明なされている。 漢代中国への仏教の伝来に関して『後漢書』二つ説明なされて以降仏僧中国渡来したのは海路陸路のどちらのシルクロード通ってなのかについて代々学者たちが議論してきた。海路仮説梁啓超ポール・ペリオ好んだもので、仏教最初中国南部長江淮河流域伝来し、そのために楚王英65年頃に老子仏陀崇拝したのだと主張する対す陸路仮説湯用彤支持しており、仏教月氏経由して東へ広まり初めに中国西部洛陽実践され、そのため明帝68年頃に白馬寺建立した主張する歴史家栄新江ガンダーラ語仏典を含む近年の発見研究踏まえた学際的な再調査通じて陸路仮説海路仮説再吟味し、以下のように結論した仏教海路通じて中国伝来したという説は説得力のある支持する資料欠けるきらいがあり、十分に厳密でない主張見受けられる[...]私に一番尤もらしく思われるのは、西北インド(今日アフガニスタンパキスタン)の月氏から仏教の伝播経路始まり陸路経由して漢代中国至ったという説である。中国に入ると、仏教初期道教中国伝統的な神秘的習俗混淆し、仏像仏画盲目的に信仰されるようになった

※この「後漢時代の書物に見られる仏教」の解説は、「仏教のシルクロード伝播」の解説の一部です。
「後漢時代の書物に見られる仏教」を含む「仏教のシルクロード伝播」の記事については、「仏教のシルクロード伝播」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後漢時代の書物に見られる仏教」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後漢時代の書物に見られる仏教」の関連用語

後漢時代の書物に見られる仏教のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後漢時代の書物に見られる仏教のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの仏教のシルクロード伝播 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS