後漢時代の書物に見られる仏教
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「仏教のシルクロード伝播」の記事における「後漢時代の書物に見られる仏教」の解説
范曄(398年-446年)によって(5世紀に)編纂された『後漢書』には初期の中国仏教が報告されている。それによれば西暦65年頃に洛陽(今日の河南省)にある明帝の宮廷と楚(今日の江蘇省)の彭城にある劉英の宮廷の両方で仏教が実践されたという。 『史記』(紀元前109年-紀元前91年、張騫が中央アジアを訪れたことを記録している)と『漢書』(紀元後111年、班固により編纂)とのどちらにも仏教がインドに生まれたことが書かれていないと范曄の注に記述されている 張騫は以下のようにしか書いていない: 「この国の気候は高温湿潤である。人々は象に乗って戦闘に参加する。」 班勇はこの国の人々が仏陀を崇めていて殺人や戦闘を行わないことを説明しているが、彼は素晴らしい経典、高徳なる戒律、称賛に値する論説や指導に関しては何も記録していない。私に関して言えば、ここに私が知っていることを記: この王国は中華の地よりもなお栄えている。季節は調和し、全ての聖なるものはここに由来してここに集まってくる。とても価値のあるものはここから生じてくる。人が思考停止してしまうほど奇異で特別な驚くべきことが起こる。この感情を考察し、それを暴けば、人は高い天のさらに上に到達することができる。 『後漢書』西域伝天竺国条に中国での仏教の起こりが概説されている。日南を経由して海路でやってきた天竺からの使節について言及し、和帝と桓帝に謝辞を表したうえで、本書では劉英と明帝の「公式の」歴史に関する最初の「確実な証拠」が総説されている。 頭頂部が光り輝いている金人を明帝が夢に見たという今なお伝わる伝承が存在する。明帝が顧問団にこの夢について尋ねるとそのうちの一人が答えた: 「西方に仏陀と呼ばれる神がございます。その体は16尺(3.7メートルつまり12フィート)、真の黄金色をしているそうです。」 皇帝はその真の教えを見つけるために天竺(西北インド)に使節を送って仏陀の教説を調査させた。その後、中国に仏像や仏画が現れた。 楚王英(当時楚は漢内部の王国であり、劉英は41年から71年にかけてこれを統治した)はこの習俗を信仰し始めた。それに続いて中国の非常に多くの人々がこの道に引き続いた。さらにその後に、桓帝(146年-167年)は聖物に専心し、しばしば仏陀と老子に供物を捧げた。人々は徐々に[仏教]を受容し始め、その数は後に莫大なものとなった。 第一に、中国の歴史文学の中で最初に仏教に言及しているのは『後漢書』光武十王列伝劉英条である。それによれば楚王英は黄老思想に深く関心を抱き同時に「断食を観察してブッダに供物を捧げた。」 黄老つまり黄老子とは老子を神格化したもので、方士(技術者、魔術師、錬金術師)や仙人(超越的な、不死の)の技法と結びつけて考えられる。「劉英や彼の宮廷にいた帰依者にとって断食や供物などの『仏教』の祭りは既存の様々な道教の慣習以上のものではなかったと考えられる。仏教の要素と道教の要素とのこの奇妙な混合は漢代を通じて当時の仏教の特徴であった。」 西暦65年に明帝が、死罪に問われたものは罪を贖う機会を与えられるという布告を出した。同年に楚王英は三十巻の絹を贈った。明帝が布告中で弟を褒め称えていることが伝記中で言及されている。 楚王は黄老の緻密な言葉を諳んじ、仏陀に対する立派な供物を恭しく捧げた。斎戒と断食を行って三か月後に、彼は心からの誓願を立てた。どのような(我々の方からの)嫌悪や疑念がありえたとしても、彼は(自分の罪を)悔やんだだろうか? 贖罪(のために彼が献上した絹)を送り返してみよう、それによって伊蒲塞や桑門の贅沢な楽しみに資するために。 「この二つのサンスクリット単語は中国語に音訳されたもので、それぞれ在俗信者と仏教僧を指」し、仏教用語の詳細な知識があることを示している。 西暦70年に、楚王英は反乱に巻き込まれて死刑判決を言い渡されたが、明帝は彼とその廷臣を流刑に処し、丹陽(安徽省)の南に行かせた。その地で楚王英は71年に自殺を図った。仏教徒のコミュニティが彭城に存在し、193年頃に将軍の笮融が巨大な寺院を立てたが、「その寺には三千人の僧侶が侍っており、彼らは皆仏典を学び、読んでいた。」 第二に、范曄の『後漢書』では、明帝が「金人」仏陀を予言的に夢に見たという伝承が「昨今」(5世紀)にまで伝わっていることが言及されている。「天竺国」条に彼の有名な夢に関する記述があるが、本紀たる「顕宗孝明帝紀」にはない。偽史的な文書では、インドに派遣された皇帝の使節について、彼らが仏僧とともに帰還したことについて、白馬に積んで運ばれたサンスクリット経典(『四十二章経』を含む)について、そして白馬寺の建立について様々な説明がなされている。 漢代の中国への仏教の伝来に関して『後漢書』で二つの説明がなされて以降、仏僧が中国に渡来したのは海路と陸路のどちらのシルクロードを通ってなのかについて代々の学者たちが議論してきた。海路仮説は梁啓超やポール・ペリオが好んだもので、仏教は最初中国南部の長江・淮河流域に伝来し、そのために楚王英が65年頃に老子と仏陀を崇拝したのだと主張する。対する陸路仮説は湯用彤が支持しており、仏教は月氏を経由して東へと広まり、初めに中国西部の洛陽で実践され、そのため明帝が68年頃に白馬寺を建立したと主張する。歴史家の栄新江はガンダーラ語仏典を含む近年の発見・研究を踏まえた学際的な再調査を通じて陸路仮説・海路仮説を再吟味し、以下のように結論した。 仏教が海路を通じて中国に伝来したという説は説得力のある支持する資料に欠けるきらいがあり、十分に厳密でない主張が見受けられる[...]私に一番尤もらしく思われるのは、西北インド(今日のアフガニスタンやパキスタン)の月氏から仏教の伝播経路が始まり、陸路を経由して漢代中国に至ったという説である。中国に入ると、仏教は初期道教や中国の伝統的な神秘的習俗と混淆し、仏像や仏画が盲目的に信仰されるようになった。
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