平田家時代とは? わかりやすく解説

平田家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:45 UTC 版)

平田紡績」の記事における「平田家時代」の解説

1868年慶應4年)に、初代平田佐次郎伊勢湾中心とする漁網製造販売目的として四日市市富洲原地区富田一色自宅に製網工場をつくり「平田商店」(平田漁網商店開業)を創業した1889年明治22年)から1890年明治23年)頃には、四日市市内の東洋紡績前身三重紡績新たに綿撚糸製造始めた事から、平田紡績前身平田商店漁網原糸とした。これまでの製網業での画期的な原料革命であり、編網機の開発と共に大量生産が可能となった明治末期明治40年代に入ると富田一色塩役運河沿いの松原西元町塩役漁網工場設置してロシアロシア帝国)・イギリス大英帝国内のオーストラリア・カナダ・ニュージーランド)・フィリピン・デンマーク・ポルトガルへの漁網輸出はじめた1909年明治42年)から1910年明治43年)頃には、ロシア向けの漁網輸出最盛期達した頃には、綿糸網が小包として毎日1000個も送り出された。 伊勢国四日市中心とする漁網産業開始江戸時代末期である。背景は麻を使用した製網が富洲原地域で盛んであり、江戸時代行われていた近世期家内工業から綿を使用した工場制の工業形態へと変化した事である。主要生産地富田地域富洲原地域である。富田富洲原日本水産業支え漁網生産拠点であり、富田富洲原生産額は、3大産地の北海道抜き愛知県並んで全国1位~2位を争うほどであった昭和40年代200海里カイリ制度の創設宣言漁業衰退苦しい経営となった。 製網が盛んになった歴史として、伊勢湾漁業が盛んで、漁業時期漁網需要高かった事を背景四日市地域漁網製造幕末初代平田佐次郎創設した平田紡績によって富田地域富洲原地域中心に製網業が発達した明治時代漁網は、極めて幼稚な全部麻糸原料とした「手結網」で地元人々中心の手工業頼っていたため、品質がそろわず粗悪であったが、1882年明治25年)に綿糸漁網生産されるようになった初代平田佐次郎海運業していた事から富洲原盛んだった麻から生産する製網産業が儲かる事に気づき1868年慶応4年漁網製造販売目的に麻屋である<平田漁網商店>を刻苦精励して創設をした。1894年明治27年)から1895年明治28年)頃から綿糸原料とした漁網生産をする綿網業を追加して麻糸買い入れては富田地域富洲原地域周辺桑名地方住民配り麻糸漁網生産はかった。製網会社であった平田商店」は綿花原料として紡績部門新設して総合繊維企業平田紡績となるまで発展した明治時代になり、近代化漁網生産問屋制家内工業形式導入した富洲原漁網問屋稲葉三右衛門開発した四日市港陸揚げされ麻糸富田富洲原桑名家内工業者に「手すき網」 を賃しだして加工した生産性低かった漁業盛んな時期になると、購入量が急増して売り切れてしまった。2代目平田佐次郎時代平田紡績原料を麻から綿糸切り換えることにより、機械編網の研究開発が行われ、明治30年代には編網機を導入して工場工業形態へと変化をした。明治40年代ドイツのイッツエホニー式やフランスのボナミー式・ザング式などの蛙股編網機に研究進んで1910年明治43年)に設置導入した3代目平田佐十郎ドイツから動力蛙股編網機を導入した大正時代には編網機が動力化され、平田紡績で製網が大量生産されて工業化時代迎えた1937年昭和12年)には四日市港からの輸出総額のうち、漁網陶磁器に次ぐ22%を占めていた。 富田地区富洲原地区は、日本水産業支え漁網生産拠点で、生産量は、 愛知県次いで全国第2位である。 大正時代平田商店躍進して1912年大正元年)に組織改め資本金5万円の平田製網合名会社設立し1918年大正7年2月に 旭製網株会社改称し資本金20万円増資した。 大正時代には以下の設備体制であった本目編網機220手動式蛙股編網機250動力蛙股編網機2台 男女工員430人 分工場工員190人 生産高55万円 1918年大正7年3月1日が、平田紡績株式会社創立年月日となり、同日資本金30万円平田網株会社改組した。その後平田製網の漁網生産伸びて輸出拡大した1922年大正11年)ごろには、従業員増加して女子だけで352人を数えて川越村若者多くいた。1927年昭和2年)には紡績事業手を広げて川越村高松地内工場増設された。東北方面から女子従業員多く働きに来たが、寮生活女子従業員購買力目当てに、昭和初期三重郡川越村天神町商店街形成された。工場機械設備拡充に伴い川越付近男子従業員雇用機会増加した1926年大正15年5月資本金100万円にして、事業対象を製網業単独から紡績部門増設して製網業と紡績業兼営して、2代目平田佐次郎から相続した平田佐矩平田製網(富洲原平田家当主平田紡績)の第4代社長となった麻糸漁網から我国初綿糸から網への一貫製造販売行なう全国でただ一つ紡績までの一貫作業体制確立した漁網原糸これまで外部から買っていたが、品質均一化コスト低減を図るために自社内紡績部門持った方が良い判断からだった。 三重郡富洲原町一帯土地を製網工場用地にする事として、天ヶ須賀本町田畑買収して工場敷地にあてた。紡績部門設備大正時代平田製網設立当初1万3000錘だったが、1938年昭和13年6月に増錘して<平田紡績株式会社>と改称して、10万錘まで拡張された。平田製網の漁網生産高戦前において全国一を誇っていた。合成繊維ナイロン糸)を全国初め導入して日本全国漁網生産シェア35%)を占めた1938年昭和13年)に豊田自動織機製作所豊田自動織機)と藤田製作所と共に企業所在地する愛知県三重県一文字取って愛三工業出資企業となる。 その後戦時中1943年昭和18年4月に、国策企業整備実施されて、紡績設備撤廃され軍需工場となり平田漁網製造株式会社改称した1944年昭和19年)には漁網工場中島飛行機製作所接収されて、終戦まで航空機油圧系統配管接手部品製作する中島飛行機四日市第1工場として使用された。当時従業員数2500であった中島飛行機軍事工場供出会社の名称と略称を以下に変更した1945年昭和20年7月平田紡績漁網工場接収していた中島飛行機株式会社四日市工場建設していた三重郡川越村高松地区社宅米軍B29爆撃を受ける。八軒茶屋爆弾茶屋)と云うが、戦後設計変更して住宅にして平田紡績社員に賃与してその後分譲して一般住宅となった。2発の爆弾の穴は子供が遊ぶ池となったが、1953年昭和28年)ころに埋め立てられた。 →略称の平田紡績から変更して以下とした。 →略称を平田製網に名称を変更した

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