近世期
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「天保郷帳」に見える佐多町域の村として辺津加村、伊座敷村、山崎村、郡村の4ヵ村があり、全てが大隅郡佐多郷に属していた。その後の「薩藩政要録」では辺津加村は辺塚村となり、山崎村という名が消滅した代わりに馬籠村という名が見えるようになっている。また、村高は4村合計で2,610石余であった。 当地を治めていた、禰寝氏は後に吉利(現在の日置市日吉町吉利)に移封され、佐多は根占と同様に、島津氏の直轄領となった。立目崎は遠見番所が置かれ、薩摩藩の中でも主要な港のうちの一つであった。また、宝暦、明和年間頃に薩摩藩によって薬園が佐多旧薬園と上之園薬園の2ヵ所が設置され、薬草採取園として、多くの亜熱帯植物を栽培していた。 明治に入り、廃藩置県によって1871年(明治4年)7月には鹿児島県に属することになったが、同年11月に鹿児島県より分割され都城県に属することになり、1873年(明治6年)に再び鹿児島県に編入された。大区小区制に代わり、郡区町村制編制法が公布され大隅郡第79大区1小区から3小区に属していた。1887年(明治20年)に大根占郡から南大隅郡に所属変更し、1896年(明治29年)に郡区画改正が行われ、肝属郡に属するようになった。
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近世期
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茂福城を舞台に1560年(永禄3年)に茂福合戦を繰り広げるなど戦乱が続いたが、1571年(元亀2年)3代目朝倉為豊が、滝川一益に黙殺されて、茂福城は2,000余騎の織田軍の兵隊に攻略されて、城内にいた家臣380人余りはほとんど討死した。 1446年(文安3年)に信濃国松本村から移住した新羅三郎源義光の子孫の南部修理大夫頼村が富田城を築いた。1568年(永禄11年)織田信長の伊勢侵攻で、滅ぼされるまで、5代122年間にわたり南部氏が富田地域を統治していた。 東富田村から富田一色港までの塩役運河などの水運業が発達して、江戸時代は桑名藩領の富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)として桑名宿と四日市宿の中間に位置している間の宿から立場と呼ばれて、旅籠や茶店が軒を並べて、名物は富田の焼き蛤であった。 1794年(寛政6年)に伊藤勘作が現在の<アミカン株式会社>の網勘製網が漁網を製造する製網業を開始する。
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近世期
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1594年(文禄3年)-富田一色に一寺の龍泉寺が建立される。 1639年(寛永16年)-富田一色大火が発生する。その後山の神町を取り壊して広小路通りを創設する。 1882年(文政6年)-富田一色の陣屋河岸の塩役運河から米の輸送が盛んとなる。 1838年(天保9年)-八風街道が改修される。 1860年(万延元年)-富田一色飛鳥神社の拝殿が造営される。
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近世期
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「天保郷帳」に見える松元町の区域にあたるの村は、日置郡伊集院郷(外城)の27村のうち5村があり、各村の村高は石谷村1,049石余、福山村933石余、直木村862石余、入佐村476石余、春山村253石余であった。 また、上谷口の地名がこの頃には見えないが後に谷口村が上谷口村と下谷口村(現在の日置市伊集院町下谷口)に分村し、この頃より上谷口村が見えるようになったと「薩藩政要録」に記されている。近世の伊集院郷は藩の直轄地として地頭による支配を受けていた。 江戸中期以降は台地や大山野の開墾が積極的に進められた。寛永年間以降に地頭制が従来の居地頭から掛持地頭に改められ、それまで石谷村の領主であった町田氏(石谷氏とも)は藩内各地の地頭を任命されたり、藩の家老としてその要職にあった。町田家は一所持であり1,742石余を領有していた。 石谷村の領主である町田家が鹿児島城下に移住した後、石谷村の政治の中心は御仮屋となり、周辺には有馬氏などの郷士集落が多かった。万延元年に町田助太郎久成(町田久成)の要請で統治を委託された有馬新七は鹿児島城下を離れ、石谷を治めることとなった。有馬新七は当地に刑法を定めたり、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。
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近世期
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「天保郷帳」に見える江戸期頃の2005年の合併による廃止時に吉松町域にあたる村としては桑原郡吉松郷(外城)に属する吉松村、川添村、鶴丸村、中津川村、般若寺村の5か村が見える。また、吉松村は川西村とも称されており、現在の大字川西の区域に当たる 明治に入り、廃藩置県により1871年(明治4年)7月に鹿児島県に属していたが、同年11月に鹿児島県より分割され都城県に属することとなったが、1873年(明治6年)には再び鹿児島県に編入された。
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近世期
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江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流は徳川家康が、喜多流は徳川秀忠が、宝生流は徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。 この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる翁神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。
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