幕末の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:13 UTC 版)
詳細は「安政の改革」、「文久の改革」、および「慶応の改革」を参照 天保の改革が失敗に終わったことにより、幕府は財政・体制ともに壊滅的危機を迎え、同時代の清国やオスマン帝国と同様に、「瀕死の病人」と化した。また、諸外国からの開国要求も盛んとなっていったため、対外政策に関しても改革を行う必要が叫ばれた。水野忠邦失脚後の政局は土井利位、ついで阿部正弘が担うことになる。1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が来航した直後、将軍家慶が死去し、病弱な13代家定が跡を嗣ぎ、翌年の日米和親条約締結に伴う政治的混乱の中で、阿部主導による安政の改革が行われた。外様大名(薩摩藩の島津斉彬)や親藩・御三家(越前藩の松平慶永や水戸藩の徳川斉昭など)の幕政への参入や、長崎の海軍伝習所の設置などが行われるが、阿部は1857年(安政4年)、39歳で死去した。 他方で、西南雄藩(薩長土肥)も激しい藩政改革を行い、人材登用を推進し、藩内の「富国強兵」化に努めた結果、文久期以降に中央政局を左右するようになった。そのため、「安政の改革」は主として西南雄藩による藩政改革を指すという見方もある。 阿部の死後は堀田正睦が改革を主導したが、条約勅許をめぐる朝廷との対立や、病弱な将軍の後継を巡る一橋派(後の15代将軍・徳川慶喜を推す勢力)と南紀派(後の14代将軍・徳川慶福(家茂)を推す勢力)との対立(将軍継嗣問題)、また外様や御三家の幕政介入に反撥した譜代大名の筆頭井伊直弼が大老に就任したことにより改革は挫折し、かえって井伊による安政の大獄を招くこととなった。しかし井伊は桜田門外の変で暗殺され、老中久世広周・安藤信正らに主導権は移る。 幕府権威の低下を防ぐため、安藤らは将軍家茂と皇女和宮親子内親王の婚姻で公武合体による幕権強化策を図るが、折から澎湃として沸き起こった尊王攘夷運動の志士たちから反撥を受け、坂下門外の変により安藤が失脚、公武合体は頓挫する。もはや幕政の混乱、幕府権威の低下は誰の目にも明らかであった。 そんな中、文久2年(1862年)薩摩藩主の父島津久光が朝廷を動かして勅使(大原重徳)を出させ、幕府に改革を迫るという事態が発生する(→文久の改革)。政事総裁職(松平慶永)・将軍後見職(徳川慶喜)・京都守護職(会津藩主松平容保)などが新設される。しかし、外様大名や朝廷の介入による幕政改革の強制は幕府権威をいっそう低下させ、これにより幕府崩壊の方向性は決定的となった。また翌年、将軍家茂が上洛すると、幕府権力が京都と江戸で分裂することになり、京都政界を主導する徳川慶喜・松平容保らと、江戸の留守を守る譜代大名・旗本らとの亀裂も生じた。 1866年(慶応2年)には既にイギリスのオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州藩に対抗するため、同年8月、同銀行と600万ドルの借款契約を締結した。 2度に及ぶ長州征伐が失敗に終わり、将軍家茂の病死によって慶喜が将軍となると、慶応3年(1867年)に、最後の改革となる慶応の改革が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各総裁が置かれるなど官制の変更やナポレオン3世の援助によるフランス軍制の導入が行われたが、もはや焼け石に水であった。同年11月9日(旧暦10月14日)、慶喜は大政奉還を宣言し、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)には江戸城が新政府(明治政府)軍に占領され、江戸幕府は265年間に及ぶ歴史に幕を下ろした。(→明治維新)
※この「幕末の改革」の解説は、「幕政改革」の解説の一部です。
「幕末の改革」を含む「幕政改革」の記事については、「幕政改革」の概要を参照ください。
- 幕末の改革のページへのリンク