大津の歴史事典 |
小野篁神社
読み方:おののたかむらじんじゃ
小野神社の境内末社で、小野篁(おののたかむら 802-852)を祭神とする。社伝によれば、暦応2年(1339)に佐々木氏頼が篁・道風の両社を建立したとされており、暦応4年の棟札が残る小野道風神社と様式が似ていることから、同時期の建立と考えられ、重要文化財。篁は、若い頃は弓馬に親しんだが、一念発起して学問に精進し、漢詩文で認められた。また、養老令の注釈書「令義解」の編纂にも参加した人物。
交通アクセス
JR和邇駅から江若バス「小野神社前」下車関連事項
小野神社
神社データベース |
小野篁神社
| 小野篁神社 おのたかむらじんじゃ 鎮座地 滋賀県滋賀郡志賀町小野 ※和邇駅から南約1km徒歩10分 ![]() ご祭神 小野篁命 小野神社祭事御由来 |
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| 小野神社摂社。石段を上がった正面に鎮座する。本殿は小野道風神社とともに国の重要文化財に指定されている。 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造り、向拝一間、檜皮葺。南北朝時代の建築見られている。 祭神の小野篁(802~52)は、平安初期の歌人、文学者。小野妹子の後裔で、歌人・漢詩人として知られた岑守(みねもり)の子。はじめ弓馬をこととしたが、のち文学に志し、「令義解」の編纂に参加した。承和三年(836)遣唐副使に任ぜられたが、大使の藤原常嗣と争い、病いと称して乗船を拒んだため、一時隠岐へ流罪となった。野相公とも呼ばれた。 篁の和歌は「古今集」以後の勅撰和歌集に採録されている。 |
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| 参議 篁 「 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人のつり舟 」 境内にたつ篁の歌碑。 |
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| 承和五年(838)であるが、篁はその副使に任命されていたのである。 この使節は、出発までに前々年と前年との二度失敗して、途中から戻ってきていた。四船のうち、一船は難破して120人あまりの人命もすでに失われていたにもかかわらず、遣唐使の出発を督励する役人まで特別に任命し、一代に一度は遣唐使を出すという天皇の威信のために、この事業は強行されようとしていた。 直情径行の篁は、病と称して遣唐使に乗船せず、敢然としてこれを拒否した。これに同調した四人も命にしたがわず身を隠してしまった。大使の藤原常嗣が、自分が乗るはずの船に穴があき、水がたまっていて危険だったので、篁が乗るはずの船と交換しようとし、しかも天皇がそれを認めたことに怒ったのである。それだけならまだよかったが、彼は遣唐使の愚劣さを風刺する漢詩をつくって発表してしまった。冬至、唐帝国はすでに往事のさかりを過ぎており、唐の文物も朝鮮半島の新羅商人から入手できたので、わざわざ命がけで出かけていくほどの必要も現実になかったのである。 父の岑守以来の庇護者であった嵯峨天皇もさすがにこれには激怒し、篁を隠岐島(島根県)へ流した。このときの隠岐島へ流される我が身の幽憤を託した漢詩「謫行吟」は、都の文人貴族の広く吟唱するところとなった。『古今和歌集』のなかの「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人にはつげよ 海人のつり舟」は「百人一首」に選ばれた有名な歌であるが、これもそのときに詠んでいる。 |
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| 参議小野篁は一切の私曲を拒み生涯清貧で、母に仕えてよく孝養をつくし、高官としての給与は、ほとんど親族や明友に与えていたとしている。 このような篁の人柄や才能から、すでに平安時代から多くの篁伝説が生じた。唐の白楽天と詩境を同じくしていたとか、母に異母妹との仲をさかれたなど、また閻魔宮の冥官となって、生前彼に好意的であった人を蘇生させたとかである。すでに『帝王編年記』に、その舅の三守大臣が頓死したが、篁は、昼は日本国にあり、夜は閻魔庁にあって冥官となっていたので、この大臣が日頃大般若経を書写する心願をもっていることを申請し、延命を乞うたので、大臣は蘇生したという。『今昔物語』でも、西三条の大臣良相が死んで冥府に至ったのを、閻魔王の前で、篁卿が良く取りなしたので、蘇生し、他日篁に冥府でのことをたずねたとき、微笑して「ゆめ口外するなかれ」と言ったという。 |
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固有名詞の分類
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