女色に溺れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)
3月、劉娥を皇后に立てると、彼女のために皇儀殿を建造すると宣言した。 陳元達は難く諫めて「臣は、古代の聖王というものは国を家の如く愛し、そのために天がこれを子のように助けるのだと聞きおよんでおります。天が民に君主を立てるのは、父母となりてこれに刑賞するためであって、億兆の民を一人に奉仕させるためでは決してございません。 晋は非道をなして人民を草芥のように見ていたために、天によって命脈を断たれたのです。そのため、漢によって人々は休息を得て希望を持つことができたのです。わが高祖光文皇帝は民のために心を痛め、それが故に自らも、先皇后も質素に振る舞われ、南北宮を建てた時も、群臣の請願があってはじめて行ったのです。今や光極殿で充分であるのに、昭徳・温明以後六宮まで至りました。陛下が即位されて以来、外は二京(洛陽・長安)を攻撃しながらも内にあっては宮殿四十カ所余りを建立されております。飢饉疾疫が重なって死者が続出し、外において兵は疲労し内においては人が怨みを抱いているのに、どうしてこれが父母の振舞いと言えるでしょうか。晋は滅んだとは言え、残党は西は漢中・南は江南により、李雄は巴蜀を占有し、王浚・劉琨は隙を窺い、石勒・曹嶷からの朝貢も次第に疎遠となってきております。伏して詔を聞きますに、新たに中宮を立てられるとのことですが、臣らにとって誠に楽しみとするところです。ですが、いまだに大難がまだ平定されておらず、今は宮殿を造営すべきではありません。臣が聞くところによれば前漢の太宗(文帝)が高祖(劉邦)の事業を継いだ後、恵呂の役の後で四海の富、天下の繁栄をもってしてもなお百金の費えを惜しんで不朽の業をなしたのです。陛下の有する地は太宗に遠く及びません。戦守の備えも、太宗の時のように匈奴と南越だけではないのです。それなのに、宮室の奢侈がここまでに至りました。臣が敢えて死を恐れずに申し上げるのは不測の禍をおそれるからです」と述べた。 これを聞いた劉聡は激怒して「朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿も完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市にさらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ」と汚く罵り、陳元達の妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に李中堂があったが、陳元達は李中堂下の樹にしがみつくと「臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず、陛下が臣を殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。朱雲はかつて『臣は地下において龍逢(中国語版)や比干と知り合うことができれば満足です』と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか」と叫んだ。 陳元達は鎖を腰に下げており、鎖を樹に巻きつけていたために、劉聡の左右の者が連れ出そうとしても動かなかった。太宰劉易・大司徒任顗・光禄大夫朱紀と范隆は出血するまで叩頭してこれを諫めた。また、劉娥も後堂でこれを聞くと、密かに中常侍を遣わして刑の執行を中止させ、劉聡へ手書して「後宮の宮殿は整っており、既に十分すぎるほどです。四海が未だ平定されておらぬ今、陛下には何とぞ民を慈しまれますよう。廷尉の言葉は真に社稷の臣であり、称賛されるべきものです。にもかかわらず、これを誅殺してしまえば、四海の民は陛下を何と罵るでしょうか。忠臣が諫言を進める時は、わが身を顧みないもの。そして、これを拒む人君も、わが身を顧みないのです。陛下は妾の為に宮殿を築き、そのために忠臣まで誅殺されます。今後、忠臣が口を閉ざしてしまうとしたら、それは妾のせいに他なりません。遠近の人々の怨念も公私の困弊も妾に集まるでしょう。そして、社稷を滅亡の危機へ追いやるのも妾になります。天下の罪が全て妾に由来しますのに、妾はどこに立つ瀬がありましょうか。古の国が滅んだ原因を見ますに、その殆どが婦人に由来します。妾はいつもこれを心に疾んでおりました。それが今、自らが同じ事をしようとしております。 妾はいつも古の婦人を蔑んでみておりましたが、これからは妾自身が後世の人々から見られます。 妾は何の面目あってあの世に行けましょうか。願わくは陛下、どうか妾に死を賜ってくださいませ。そしてそれを以て陛下の行き過ぎを塞がれますよう」と諫めると、劉聡はようやく過ちに気づき、愕然とした。 しばらくした後、劉聡は子の劉易らに「朕は最近心を病んでおり、喜怒が度を過ぎると自制が利かなくなってしまったのだ。諸公はよくぞ諫めてくれた。そなたらこそ、補弼の臣と言うべきである。朕は我が心に恥ずかしい。生涯これを忘れはしない」と謝罪した。そして、陳元達を召し寄せると謝罪し、劉娥の手記を手渡し「外では公のような者が支え、内では后が助ける。朕には何の憂いもありはしないな」と語った。また、逍遙園を納賢園に、李中堂を愧賢堂と名を改めた。 4月、晋の愍帝が長安に即位した。劉聡は劉曜と司隷校尉喬智明・武牙将軍李景年らを派遣して長安を攻撃させ、趙染にも軍を率いて続かせた。 6月、劉琨と拓跋猗盧が陘北で会合し、漢攻略の方策を練った。7月、劉琨は藍谷に進み、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉琨は監軍韓拠に命じ、西河から南下して西平城に向かわせた。 劉聡は大将軍・劉粲に劉琨を、驃騎将軍劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍蘭陽に西平城を救援させた。劉琨らは漢軍が動いたと知ると退却した。 9月、晋の大都督麹允は黄白城に拠っており、劉曜・趙染は幾度も破った。晋の征東大将軍索綝は兵を率いて麹允の救援に当たった。10月、趙染は前鋒大都督・安南大将軍となり、精鋭の騎兵5000を率いて長安を奇襲した。その途上、晋軍を渭陽において撃ち破り、将軍王広を討ち取った。夜に乗じて長安外城に入ると、愍帝は射雁楼に逃れた。趙染は、龍尾山下の晋軍の諸陣営を焼き払い、1000人余りを殺害して財貨を奪った。明け方、逍遙園に駐屯した後、趙染は軍を返した。麹鑒が追撃を掛けるも、霊武で劉曜に遭遇し、麹鑒は大敗した。11月、劉曜はこの勝利に驕って備えを設けておらず、麹允が兵を率いて奇襲すると、 大敗を喫して冠軍将軍の喬智明が殺害された。劉曜は平陽に帰還した。 劉曜は河南尹に出兵し、石梁で魏浚を包囲した。劉演と河内郡太守の郭黙が救援したが、劉曜は兵を分けて黄河の北で迎えて撃ち、これを破った。魏浚は逃走したが、捕まって殺害された。 314年1月、流星が牽牛から出て紫微へ入り、平陽の北十里に墜落した。地面に激突した流星は長さ三十歩、広さ二十七歩の破片となった。劉聡はこれが気になって群臣へ「朕の不徳によってこのようなことが起きた。憚るところなく意見を言うように」と問うたところ、陳元達と博士の張師は「星変の異は、禍行の兆しと言われます。臣は、後宮に三后を立てた事が原因ではないかと恐れております。願わくは、陛下がこれを慎まれる事を」と進言した。すると劉聡は「流星は陰陽の理である。人事に何の関わりもない」と返答した。だが、この数日後に劉娥が亡くなった。これ以後、劉聡の女漁りはさらに激しくなり、後宮から秩序が失われた。
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