奥羽列藩同盟と米沢藩とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 奥羽列藩同盟と米沢藩の意味・解説 

奥羽列藩同盟と米沢藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 04:35 UTC 版)

宮島誠一郎」の記事における「奥羽列藩同盟と米沢藩」の解説

その数日前会津藩家老謝罪嘆願書仙台藩主伊達慶邦米沢藩主・上斉憲の添え状奥羽鎮撫総督九条道孝提出されたが、下参謀世良修蔵によって却下されていた。新政府軍攻められれば応戦するが、こちら側から手は出さないとする米沢藩方針対し世良不遜な態度激昂し仙台藩はむしろ先手取って攻めようとする方針路線変更しており、両者齟齬解消するため米沢藩は、藩主・斉憲自らも出向いていた奥羽列藩会議開催中の白石城宮島派遣した宮島白石会議において京で会見した広沢見解伝えて何とか謝罪降伏路線説得しようとしたが、そこへ仙台藩士による世良暗殺の報が届く。しかし閏4月23日宮島工作により仙台藩強硬路線は何とか回避され奥羽諸藩朝廷直接建白を行う方針の下、白石盟約書を調印した仙台藩儒者大槻磐渓起草による建白書過激であったため、宮島はこれを改刪して表現改め米沢藩主導穏健路線推進5月3日には奥羽列藩同盟結ばれた(後に北越諸藩加わり奥羽越列藩同盟発展)。 建白書提出副使として宮島江戸へ向かい幕臣榎本武揚勝海舟山岡鉄舟関口隆吉らと会談新政府軍上野戦争彰義隊討伐した直後意気軒昂であり、嘆願書建白得策ではないと口を揃えて諭されたが、7月末に前島密斡旋海路神戸経て上京し上杉家縁戚飛鳥井雅典頼って建白試みる。しかし飛鳥井上杉斉憲官位剥奪理由面会拒否結局土佐藩山内容堂通じて岩倉具視提出されたが、この時点ですでに奥羽諸藩戦争巻き込まれており、手遅れとなっていた。 帰国する途中9月初めに江戸で前島から米沢藩降伏報告受けた宮島は、急ぎ国元帰り庄内藩の降伏向けて尽力奥羽列藩同盟発起人ありながら諸藩先駆けて降伏したため奥羽諸藩からの恨み買っていた米沢藩対す非難高まっていたことから、宮島はむしろ率先して米沢藩奥羽諸藩の罪をかぶると申し出る(「奥羽有罪一身」)ことで疑惑解消すべく、建白書上申することを提案。藩当局容れるところとなり、急ぎ東京7月江戸から改称)へ向かう。その頃米沢藩には内外から箱館戦争への従軍求められていたが、宮島はこれに反対し、静岡藩江戸開城交渉により徳川家江戸から静岡減封となっていた)の関口・勝らとも交渉して、これを回避12月4日に「奥羽有罪一身」との建白書新政府弁事局に提出したその結果12月7日米沢藩18万石から14万石減封藩主・斉憲の隠居嫡子・茂憲の家督相続認められるという、庄内藩と並ぶ比較寛大な処置なされた版籍奉還後は、米沢藩藩政改革尽力した

※この「奥羽列藩同盟と米沢藩」の解説は、「宮島誠一郎」の解説の一部です。
「奥羽列藩同盟と米沢藩」を含む「宮島誠一郎」の記事については、「宮島誠一郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奥羽列藩同盟と米沢藩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥羽列藩同盟と米沢藩」の関連用語

奥羽列藩同盟と米沢藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥羽列藩同盟と米沢藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宮島誠一郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS