奥羽列藩同盟と米沢藩
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その数日前、会津藩家老の謝罪嘆願書と仙台藩主・伊達慶邦、米沢藩主・上杉斉憲の添え状が奥羽鎮撫総督・九条道孝に提出されたが、下参謀・世良修蔵によって却下されていた。新政府軍に攻められれば応戦するが、こちら側から手は出さないとする米沢藩の方針に対し、世良の不遜な態度に激昂した仙台藩はむしろ先手を取って攻めようとする方針に路線変更しており、両者の齟齬を解消するため米沢藩は、藩主・斉憲自らも出向いていた奥羽列藩会議開催中の白石城に宮島も派遣した。宮島は白石会議において京で会見した広沢の見解を伝えて何とか謝罪降伏路線で説得しようとしたが、そこへ仙台藩士による世良暗殺の報が届く。しかし閏4月23日、宮島の工作により仙台藩の強硬路線は何とか回避され、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針の下、白石盟約書を調印した。仙台藩儒者・大槻磐渓起草による建白書は過激であったため、宮島はこれを改刪して表現を改め、米沢藩主導の穏健路線を推進。5月3日には奥羽列藩同盟が結ばれた(後に北越諸藩が加わり奥羽越列藩同盟に発展)。 建白書提出の副使として宮島は江戸へ向かい、幕臣の榎本武揚・勝海舟・山岡鉄舟・関口隆吉らと会談。新政府軍は上野戦争で彰義隊を討伐した直後で意気軒昂であり、嘆願書建白は得策ではないと口を揃えて諭されたが、7月末に前島密の斡旋で海路神戸を経て上京し、上杉家縁戚の飛鳥井雅典を頼って建白を試みる。しかし飛鳥井は上杉斉憲の官位剥奪を理由に面会を拒否。結局、土佐藩の山内容堂を通じて岩倉具視に提出されたが、この時点ですでに奥羽諸藩は戦争に巻き込まれており、手遅れとなっていた。 帰国する途中、9月初めに江戸で前島から米沢藩降伏の報告を受けた宮島は、急ぎ国元へ帰り、庄内藩の降伏に向けて尽力。奥羽列藩同盟の発起人でありながら、諸藩に先駆けて降伏したため奥羽諸藩からの恨みを買っていた米沢藩に対する非難が高まっていたことから、宮島はむしろ率先して米沢藩が奥羽諸藩の罪をかぶると申し出る(「奥羽有罪在一身」)ことで疑惑を解消すべく、建白書を上申することを提案。藩当局の容れるところとなり、急ぎ東京(7月に江戸から改称)へ向かう。その頃、米沢藩には内外から箱館戦争への従軍を求められていたが、宮島はこれに反対し、静岡藩(江戸開城交渉により徳川家は江戸から静岡へ減封となっていた)の関口・勝らとも交渉して、これを回避。12月4日に「奥羽有罪在一身」との建白書を新政府弁事局に提出した。その結果、12月7日に米沢藩は18万石から14万石の減封、藩主・斉憲の隠居と嫡子・茂憲の家督相続が認められるという、庄内藩と並ぶ比較的寛大な処置がなされた。版籍奉還後は、米沢藩の藩政改革に尽力した。
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