宮島誠一郎
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宮島 誠一郎(みやじま せいいちろう、天保9年7月6日(1838年8月25日) - 明治44年(1911年)3月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した官僚・政治家。元米沢藩士。
- ^ 友田2009、26頁。由井、3頁。
- ^ 友田2009、33-36頁。
- ^ 阿部、15頁、41頁。
- ^ 阿部、33-36頁。
- ^ 友田2009、68-76頁。
- ^ 友田2009、77頁。
- ^ 大庭、44-54頁。
- ^ 『研究』友田論文、97頁。友田2009、110頁。
- ^ 『研究』友田論文、100-101頁。友田2009、110-115頁。
- ^ 友田2009、115-117頁。
- ^ 『研究』友田論文、105-110頁。友田2009、122-131頁。
- ^ 『研究』友田論文、110-113頁。友田2009、132-136頁。
- ^ 白石盟約時点では穏健路線であった米沢藩も、5月中旬には開戦論に傾いており、雲井龍雄による「討薩之檄」が作成され、越後支援のため藩兵を派遣していた。
- ^ 宮島がこの提案を行った背景には新政府の奥羽諸藩に対する寛典論が擡頭していたことに期待する側面があったが、この見通しはやや楽観的であり、政府内でも厳罰論と寛典論はいずれが優勢ともいえず、結局建白提出は12月まで持ち越される。『研究』友田論文、117-118頁。友田2009、145-150頁。
- ^ 『研究』友田論文、120頁。友田2009、152頁。
- ^ 友田2009、200-201頁。
- ^ 江藤は「所謂国憲ナル者仏蘭西ノ五法ノ如ク広ク人民ニ関渉セシモノニテ其性質帝王自家ノ憲法ニ非ス」として反対したという。フランス流を理想とした江藤にとっては、「帝王自家ノ憲法」よりも、人民の権利に直結する民法・刑法の制定の方が優先であったため、宮島の建議は受け入れなかった。『研究』望月論文、201頁。稲田2009、56頁
- ^ 稲田2009、56-60頁
- ^ なお、この明治初期における議会制度挫折の一連の動きの中で、消極的ないし反対であった後藤・江藤・板垣らは、1年後征韓論に破れて下野した後は逆に、民選議院設立建白書を提出し、議会制論者としての評価を得た。
- ^ 『研究』勝田論文、258頁。
- ^ 『研究』勝田論文、262頁。
- ^ 『研究』大日方論文、273-276頁。
- ^ 『研究』大日方論文、276-278頁。
- ^ 『研究』大日方論文、281-285頁。
- ^ 『研究』中川論文、186頁。
- ^ 『研究』中川論文、190頁。
- ^ 『研究』望月論文、200頁。
- ^ 『研究』望月論文、211-212頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、6頁。
- ^ 友田2009、206-223頁。
- ^ 友田2009、239-240頁。
- ^ 『官報』第1324号、「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『研究』安在論文、314頁。
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- 2 宮島誠一郎の概要
- 3 栄典
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