世子帰国運動
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元治元年(1864年)、宮島は願い出て東北諸藩探索の旅に出、会津若松、白河、仙台、上山などを巡り、各藩の情勢を詳細に家老へ報告した。慶応2年(1866年)8月には、興譲館の改革案を提出。同月には周旋方に任ぜられて江戸出府の命を受け、江戸藩邸で情報収集に努める。薩摩藩・会津藩・熊本藩などとの情報交換を経て、藩力強化の必要性を感じた宮島は、そのための財政的な足かせとなっていた米沢藩世子・上杉茂憲の在京を切り上げ帰藩させることを画策。藩主・斉憲の隠居問題もあって及び腰であった藩重役を説得し、10月には京都へ赴いて茂憲の帰藩を推進した。また会津藩士・林三郎とともに蝦夷地開拓について幕府目付に相談するなど、藩力養成のための様々な方策を探った。
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