世子を擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 18:01 UTC 版)
呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めた。 趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めている。 呂不韋は趙の豪族の娘(趙姫)を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていない。
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