りょ‐ふい〔‐フヰ〕【呂不韋】
呂不韋
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呂 不韋(りょ ふい、拼音: 、? - 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で王に次ぐ権力を持つ相国として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の実父とする説もある[1][2]。
- ^ a b c 卷八十五 呂不韋列傳 第二十五 (中国語), 史記/卷085, ウィキソースより閲覧。 - 呂不韋取邯鄲諸姬絕好善舞者與居,知有身。子楚從不韋飲,見而說之,因起為壽,請之。呂不韋怒,念業已破家為子楚,欲以釣奇,乃遂獻其姬。姬自匿有身,至大期時,生子政。子楚遂立姬為夫人。
- ^ a b c 和訳史記列伝 第二十五 呂不韋列伝370頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 卷八十五 呂不韋列傳 第二十五 (中国語), 史記/卷085, ウィキソースより閲覧。 - 呂不韋者,陽翟大賈人也。往來販賤賣貴,家累千金。
- ^ 和訳史記列伝 第二十五 呂不韋列伝367頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 戰國策卷七 秦五 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#濮陽人呂不韋賈於邯鄲, ウィキソースより閲覧。 - 濮陽人呂不韋賈於邯鄲,見秦質子異人
- ^ 戦国策 孝文王の項一九四 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 「此奇貨可居」 司馬遷 (中国語), 史記/卷085, ウィキソースより閲覧。
- ^ 『史記』秦始皇本紀
- ^ 島崎晋 2019, p. 79.
- ^ 戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。
- ^ 『呂不韋列傳』14
- ^ 渡邉義浩 『春秋戦国』 洋泉社 2018年p.145
- ^ 『呂公についての一考察』 - 楠山修作
- ^ 『蜀書十三 黃李呂馬王張傳』 (中国語), 三國志/卷43#呂凱, ウィキソースより閲覧。
呂不韋(りょ ふい)
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「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「呂不韋(りょ ふい)」の解説
秦の宰相。元は諸国を股にかける気鋭の商人だった。若き日に市中で三侠と出会って以来、行く先々で彼らと関わることになる。雛朱、異人を「奇貨居くべし」として庇護し、秦に入ると無一文から数千人の食客を抱えるまでにのし上がり昭王亡き後、商人出身としては異例の宰相となる。朱姫(雛朱)は元々、呂不韋の寵愛を受けており、異人に差し出したときには既に身籠っていたため、その子・政の実父である。安国君と子楚を支え秦の政治に関与し、嬴政の即位後は相国となる。その手腕は蒙驁には評価されているものの、嬴政の想像を絶する命令には圧倒されている。
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